ロシア民族衣装のお店キリコシナ
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ロシアファッションヒストリー35 1910年から1930年2

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キトミールのドレス
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ロシアファッションヒストリー34からの続きです。1910年から1930年までのロシアのファッションに関しての興味深い史実や逸話を紹介しています。

帽子

前号では、この時代のファッションのエポックが1917年の方のロシア革命であることを紹介しましたが、ロシア革命後の反ブルジョワジーの流れで、まず姿を消したファッションアイテムは帽子でした。革命前の婦人用の帽子は派手で豪華だったため、ブルジョアジーの明確な兆候として追放され、「プロレタリア」のスカーフに完全に取って代わられました。しかし、1924年以降、NEP(ソビエトの新経済政策()(https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%9D%D0%BE%D0%B2%D0%B0%D1%8F_%D1%8D%D0%BA%D0%BE%D0%BD%D0%BE%D0%BC%D0%B8%D1%87%D0%B5%D1%81%D0%BA%D0%B0%D1%8F_%D0%BF%D0%BE%D0%BB%D0%B8%D1%82%D0%B8%D0%BA%D0%B0

の登場により、帽子はソ連の社会に戻ってきて以前の人気を取り戻し、多くの人がニットや刺繍の帽子を作り、西洋の帽子のファッションを模倣するようになりました。


出典:https://club.osinka.ru/topic-180010?start=0

上の画像は、1916年の写真。麦と絹で作られた帽子は、アップリケと刺繍で飾られています。ココシュニックにも似ていますね。

帽子の広告
出典:https://sex-in-ussr.livejournal.com/6516.html

当時の帽子の主な傾向は、頭にぴったりとしたつばのないモデルです。帽子はヘルメットやベルに似ており、クローシュハットと呼ばれていました。これはフランス語でベルを意味します。工業化と構成主義https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%8B%E6%88%90%E4%B8%BB%E7%BE%A9_(%E6%95%99%E8%82%B2)

のモチーフのテーマは、帽子の装飾要素に反映されていました。たとえば、帽子は、航空などを暗示する翼で装飾されることが多かったのです。このような構成主義者のモチーフも、この時代の西洋のファッションの特徴でもありました。

 

毛皮

この困難なロシア革命直後という時代には毛皮も大きな問題であり、ブルジョワ主義の排除を掲げようとはしても、ロシアの厳しい寒さによって毛皮を完全には放棄できませんでした。ただし、ミンクやクロテンに変わり、猫やウサギなどの安価な毛皮が使用され始めたのもこのころです。染色されたウサギの毛皮はこの時代の最も一般的な毛皮です。ところで、ウサギは日本でも使われていましたし、猫も日本では三味線に使われていたので何となく納得できますが、ロシアでは地方によって犬の毛皮のコートが作られていたことをご存じでしたか?92歳になるブログ筆者のロシア人嫁の祖母は、犬の毛皮のコートは安価でとても暖かったと言ってます。現在でも流通しているので通販ウェブからの画像をお見せしますが、今の時代のヨーロッパや日本で需要があるかという観点からは疑問符を付しておきます。

犬の毛皮のコート

犬の毛皮のコート2

 

ロシアファッション流行というパラドックス

当時ロシアファッションにはいくつかの意味でのパラドックスがありました。1つのパラドックスは、ロシアではファッションが意図的に封印され、開発の機会を奪われていたにもかかわらず、1920年代、ロシアファッションは世界全体にそれなりの流行を残しつつ存在していたことです。そして、もう一つはソ連においてもいわゆるロシア回帰的なロシアファッションのブームを経験したことです。ロシアファッションブームは急速に発展しましたが、ロシアからではなく、逆に西洋から来ました。なぜでしょうか。

まずは、ヨーロッパにロシアファッションが広まったのは、これは主に、ロシアの伝統、衣装の要素、職人技を西洋にもたらした大量のロシア移民がいたからです。1920年以降、ロシア難民、と言っても共産党の迫害から逃れた元貴族や地主等の人々ですが、この人たちの最初の立ち寄り場所であるコンスタンチノープル(現在のトルコ、イスタンブール)に、​​ロシア人によるファッションアトリエが数多くオープンし始めたのが発端です。

出典:https://club.osinka.ru/topic-180010?start=0

上の画像は今のイスタンブール、1930年代半ばのものトルコの雑誌「ファッション」からロシア人の帽子製作販売店「Mod Olga」の広告

コンスタンチノーブルへの東からのロシアの女性の到来は、イスラム教徒がブルカとベールの下に女性の顔を隠していたので、何もつけていない女性が町を闊歩することで大きな衝撃を与えました。ロシアの女性は、オスマン帝国のファッションにドレス、短い髪型、何も覆いをしていない顔を出現させたのです。同時に、南の日差しの中、ロシア人の女性の中で日焼けの流行が最初に広まったのもこのコンスタンチノーブルからです。

 

ピーリング技術を世に出したのは誰か?

日焼けには代償を伴います。日焼け後皮がむけて、しばらくの間みっともないことですね。しかしこの現象が逆に肌を若返らせることを利用して、ケミカルピーリングという方法を編み出した人がいます。ただし、古い皮膚を落として、新しい皮膚を表出させる単なるピーリングであれば、紀元前のエジプトでの記録があるので、知識としてはあったようです。

ケミカルピーリング - Wikipedia

けれども、薬剤を使って古い層を落とす方法は1800年代に登場しましたが、副作用など問題があり広く普及することはありませんでした。しかし、コンスタンチノーブルで生活していたロシア人の美容師アンナ・ペゴヴァは独自の方法を考え出し、ピーリングの特許を取ったという記録があります。これについては、衣装研究家のバシリエフ氏の著述にもあります。ただしこれ以外には少なくともネットで検索しただけではその証左となる情報はありませんでした。

 

ロシア移民が広げたロシアブーム

第一波の移民は、ロシア製品を普及するため、物産展や美術展を開催し始めました。特に移民のロシア人女性は、刺繍を施したテーブルクロス、ブラウス、木製ビーズ、タバコケースなど、あらゆる種類の製品を作り、各展示会で販売し始めました。それらの高い品質と繊細さという特徴によって、ヨーロッパの人々にロシア製のイメージを強く植え付けることに成功したのです。

また、展示会に限らず、海外に定住した一般のロシア人女性は、休日や外出のためのフォーマルな服装としてサラファン、ココシュニックを着用することを好みました。こうした習慣も間違いなくロシア式の普及にも貢献しました。そういえば亡くなった私の母は満州に疎開していましたが、「疎開先の松花江では、夕方になるとロシア人夫婦が散歩を始めるのだけれど、女性たちは髪飾りとレースや刺繍で飾った綺麗なドレスをきていたねえ。」と言っていたのを思い出します。

アンナ・パブロワ ココシュニックをかぶって
出典:https://sex-in-ussr.livejournal.com/6516.html

ロシア風の衣装と言えば、サラファンとそのサラファンに施されたロシア風の柄の刺繍が特徴ですね。ヨーロッパで受け入れられたのはサラファンそのものではなく、モチーフとしての絵柄だったようです。ニットウエア、コートなどにロシア風の刺繍が施されていきました。さらにヨーロッパにおけるロシアの髪飾り、ココシュニックの人気は非常に大きく、1920年代、ココシュニックを模した赤い髪飾りが、ヨーロッパで大流行しました。

 

ヨーロッパで開店したロシアファッションのお店

写真 

ヨーロッパでのロシアのテーマの成功がきっかけとなって、ヨーロッパではアトリエやワークショップが開店し始めました。このブログでは、ワークショップやアトリエの定義を以下のようにしています。

ファッションハウス:多くのデザイナーや、ロシア全国規模で有名なデザイナーがいる、そして多くの仕立て屋がいる店舗、ファッションショーも可能な大規模店舗

アトリエ:基本的にデザイナーは一人、あるいは少人数のグループ、あるいはデザイナーはおらず注文を受けての仕立てのみ行う中規模店舗

ワークショップ:作業場程度のごく小さい仕立て屋

1922年、パリ。ロシア風の冬のコート、フランスの雑誌「アートとファッション」からの引用。
出典:https://club.osinka.ru/topic-180010?start=0

 

パリで開店した最も大きいロシアのファッションハウスはファッションハウス・イテブでした。今日、この家があった場所には有名な化粧品会社ロレアルがあります。創立者はロシアを亡命した貴族です。

ファッションハウス イテブ
出典:https://weekend.rambler.ru/read/38912877-kak-russkie-emigrantki-diktovali-mirovuyu-modu/?updated

 

またロシア皇帝アレクサンドル3世https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB3%E4%B8%96の孫娘イリーナとその夫フェリックス・ユスポフスは、パリにロシアのファッションハウス「イルフェ」をオープンしています。

品質の高さで有名なロシアの刺繍の工房「キトミール」は、アレクサンドル3世の姪であるマリア・パブロブナ王女によって設立されたものです。品質が認められていた証として、1920年代のすべてのシャネルブランドの刺繍は、キトミールで刺繍されました。当時非常に流行していた刺繍は、西洋ではロシア人の専売に近くなっていました。

マリア・パブロブナ
出典:https://weekend.rambler.ru/read/38912877-kak-russkie-emigrantki-diktovali-mirovuyu-modu/?updated

 

キトミールの刺繍
出典:https://club.osinka.ru/topic-180010?start=0

今となっては西洋でロシアのファッションハウスがいくつ開店したかを正確に計算することは困難ですが、例えばパリだけでいえば20軒以上あったことは記録によって明らかです。

いかがでしたでしょうか。ヨーロッパファッションにこれだけロシア人が関与していたんですね。

次回次回もこの時代のファッションについての情報をお届けします。

 

参考文献およびウェブサイト(すべてロシア語です)

http://lamanova.com/16_competitors.html
https://russian7.ru/post/kak-poyavilas-kosovorotka-u-russkikh/
https://vrns.ru/analytics/1394

https://club.osinka.ru/topic-180010?start=15
・R.V.サハルジェフスカヤ「衣装の «歴史:古代から近代へ
・カミンスキーN.M.「コスチュームの歴史」
・Далю(ダーリョ)「Толковый словарь живого великорусского языка」

https://vladimirdar.livejournal.com/34227.html

https://www.proza.ru/2016/03/06/208

https://wiki.wildberries.ru/%D0%B3%D0%BB%D1%8F%D0%BD%D0%B5%D1%86/%D0%B8%D1%81%D1%82%D0%BE%D1%80%D0%B8%D1%8F-%D0%B6%D0%B5%D0%BD%D1%81%D0%BA%D0%B8%D1%85-%D0%B6%D1%83%D1%80%D0%BD%D0%B0%D0%BB%D0%BE%D0%B2-%D0%B2-%D1%80%D0%BE%D1%81%D1%81%D0%B8%D0%B8-%D0%B6%D1%83%D1%80

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