ロシアファッションブログの136回目、ロシアのお茶の歴史の2回目です。前回ロシアファッションブログ135 「ロシアのお茶の歴史1」は、ロシアにおいてお茶がポピュラーになる以前の飲み物や、ロシアにお茶が輸入された当時の歴史を紹介しました。今回もロシアにおけるお茶の歴史を見ていきましょう。
高価だったお茶
18世紀初頭、お茶は高価であり、他の外国の希少品と同様に、貴族、裕福な商人、上位聖職者などのエリートだけが飲むものでした。しかし、その後、農民と都会の貧しい人々もお茶を飲む機会を得るまでにそれほど長い時間は必要ありませんでした。
19世紀の初め、旅行者のマーキス・ド・クスティンは、ロシアについての旅行メモに次のように記しています。
「ロシア人は、最貧層でさえ、家にお茶の急須と銅のサマバールを持っていて、朝と夕方に家族とお茶を飲みます。家は素朴でシンプルなのですが、お茶の入れ方は繊細で豪華であり、まったく対照的でした。
そして、御者は酒を差し置いて、居酒屋でお茶を飲むか、タバコをうことが多かった。
このように御者は典型的なお茶の消費者でした。
またロシアのお茶は遠距離旅行や軍事行動に欠かせないアイテムでもありました。多くのロシア人旅行者や軍人が中国のプーアル茶を好んだことが知られています。それは持ち運びが容易で、体がよく暖まり、食後に胃を癒す効果が広く認識されていたからです。
19世紀当時のロシア軍では、お茶は十分に供給されてはいませんでした。その代わりに、下位の階級はクワスを飲み、お茶は自費で購入しました。例外は、コレラの流行時、兵隊は薬としてお茶が与えられときでした。
ロシアには不安感を持ってお茶を見ている人々がいました。キリスト教の古儀式派の一部は、お茶に関する民間伝承に対する態度を以下の言葉で伝えています。
「お茶を飲む人に救いではありません」「お茶という神の絶望を飲む人々」
「お茶はロシアのクリスチャンの心の中に入った。そしてみんなを最後まで破壊してしまった。」などです。
お茶を飲む伝統(どのようにお茶を飲んだか)
ロシア東部では、お茶の飲み方は多くの慣習によって規定されています。日本の茶道ほどではありませんが、一定の作法がお茶の作法には存在することは興味深いです。
かといってロシアのお茶の飲み方は儀式一辺倒なものではなく、より実利的なものです。一般的にお茶だけを供するということはなく、最も貧しい家でも少なくともパンはお茶とともにテーブルに置かれました。もちろん裕福な家庭は、御馳走の豊かさも、食器やサマバールの価格もそれに見合ったもので、しばしば銀製でした。
ロシアの家族ではお茶を用意するのは女性の仕事です。お茶道具を入れるための家具には鍵付きの錠があり、農民の家族の結婚式においてお茶の道具はゲストからの良い贈り物と見なされていました。そういえばブログ筆者がロシアで結婚した時も、友人や親せきからの贈り物の中にティーカップのセットとサマバールがあったのを思い出しました。
他にお茶にまつわる習慣として、花婿(婚約者)がお茶に招待されたとき、娘のお茶の入れ方は、彼女の家事のスキルを試すための良い方法とされ、親戚一同がこぞって花嫁の品定めをしていたそうです。
お茶を飲むためのテーブルは常にテーブルクロスで覆われていました。これはどこの居酒屋でさえほぼ義務的な習慣でした。ティーカップの下に特別なナプキンが並べられます。革命前(1917年)の雑誌では、ティーセットやナプキン、テーブルクロスの全体のパターンセットが頻繁に記事になっていたほどです。
午後、家族全員がサマバールの周りに集まるのが典型的なロシア家族の習慣です。我が家でもそうです。お茶を飲むことは、テーブルでの会話だけでなく、「燃えるお茶」という遊びなどの娯楽も伴っていました。これはティアカップの中のお茶を燃やして蒸発させる遊びですが、よく燃えるオイルに浸した砂糖をお茶に入れてマッチをすることによってオイルを燃やし、水分を蒸発させるものです。
このように昔のロシアのお茶を飲む文化には多くの娯楽的、儀礼的要素を含みます。その儀礼的要素としては、お茶の葉が訪問者のカップに入ってしまった場合、家主側はこれについて正式に謝罪しなければなりませんでした。しかし、訪問者はまた、«Чаем на Руси никто не подавился!»「ロシアでお茶の葉で窒息する人はいませんよ!」という決まり文句で謝罪を「否定する」必要がありました。
さて、今回はここまでです。次回もお茶の歴史は続きます。
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