ロシア民族衣装のお店キリコシナ
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ロシアファッションヒストリー7

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ロシアの実家にあるソ連時代の足踏みミシン。現役です。
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ルパシカ、サラファン等ロシアファッションについて紹介するブログです。

ロシア ファッション ヒストリー ルパシカ 6
からの続きです。

前回は、今日のファッションデザイナーのモットーに、N.P.ラマノバの有名な公式が見て取れるというところで終わりましたね。その公式とは「何のために、誰のために、どんな素材から」というものでした。

ラマノバの残した、いくつかのデッサンを見てみましょう。以下4枚のデッサンがそれです。

出典:カミンスキーN.M.「コスチュームの歴史」

出典:カミンスキーN.M.「コスチュームの歴史」

出典:カミンスキーN.M.「コスチュームの歴史」

出典:カミンスキーN.M.「コスチュームの歴史」

これらはロシアの民族衣装をベースにした生地で作られてます。特にN.P.ラマノバの特徴として、刺繍や端切れなどの、広く利用可能で安価な仕上げが設計されており、貧しかった生地の選択の中それでもなんとかデザインを多様化しようとしています。粗雑なリネンキャンバス、半漂白キャンバス、ホームスパンウール 等の安価な素材を使い、刺繍、テープのような飾り、ステッチなどを豊富に使い、縫い代や末端を仕上げています。

ラマノバのモデルは、ヨーロッパで流行したファッションの要素とは根本的に異なります。ラマノバのポリシーを踏襲するデザイナーは、装飾的な技術でデザインを強調し、製品のイデオロギーの中心として、民俗的な伝統を際立たてています。

1925年、ソ連国民を喜ばせるニュースが届きました。この年フランスのパリで開催された世界博覧会に出展したN・ラマノヴァとV・ムヒナの作品が、最高賞「グランプリ」を受賞したのです。作品の特徴として、現代のファッショントレンドと国民のアイデンティティが組み合わされたことが評価されました。帽子、バッグ、刺繍キャンバス、貝殻や小石のビーズで作られたジュエリーのアンサンブルという作品でした。

ナデジダ・ペトロヴナ・ラマノワはソビエトのモデリングの基礎を築き、優れたソビエトの彫刻家V.ムヒナ、応用美術の専門家であるE.プロフェクツカヤ、アーティストA.エクスター、N.マカロワ、F.ゴレレンノワ等がこれを発展させ、創造的な方向性を作り出したと評価されています。デザイナーのA.エクスターはこうよく言ったものです。「現代の”ファッション”は、ビジネスマンの気まぐれで変化するけれども、私たちは、そのようなものと対比させ、そのシンプルさと、便宜性、そして美しさを兼ね備えたファッションを提案しなければなりません。」 A.エクスターはソ連は勿論、フランスでも活躍した画家でもあります。

Alexandra_Exter_Costume_design_for_Romeo_and_Juliette_
出典:Wikipedia

 

1920年代のロシアファッションの特徴としては、いわゆる専門の職業やスポーツユニフォームの、「スタイル」(下図)の問題であったと言えます。このことは、ソビエトのファッション形成の主な原則を、「 人間の生活様式に準拠し、社会主義社会での労働」というコンテンツとして意識するということです。1920年代のデザイナーは、外科医、パイロット、消防士、建設作業員、売り子などのためのそれぞれのファッションを提供しました。その中には、ジッパーに留め金を持つポケット付きの多くのオーバーオールがあり、今の時代にもその影響が残っているほどです。当時になって初めて、建設業に従事する女性にオーバーオールの制服が提供されましたが、それまで女性はズボンをはいて働いていなかったため、大胆かつ革新的な提案となりました。

出典:カミンスキーN.M.「コスチュームの歴史」

 

ソ連のファッションにおける初期の材料は、キャンバス、シーツ、兵士用の布、粗雑なウールでした。しかし、1921年から1922年まで、新しい経済政策への移行と繊維および縫製企業の活動が回復し始めたため、その後は、主に綿織物(サテン、フランネル)が登場します。織物のデザイナーは、伝統的な花の柄を保存するとともに、さらに新しいパターンを作成しはじめます。彼らの創造性は、新しい幾何学的模様という芸術的イメージに向けられていきました。

当時、斬新と言われるほどのパターンを持つ花柄の綿生地は、グレート・イヴァノヴォ・マニュファクトリーという国営工場によって1924年に生産されています。これらのパターンの1つは、野生の花と小麦に囲まれた鎌とハンマー(下図)、もう1つは、鎌とハンマーと5つの尖った星の組み合わせからなり、労働のエンブレムのイメージとされました。ソ連の国旗に使われているものです。

 

出典:http://rpnews.ru/2018/09/20/неразделимы-серп-и-молот-земля-и-кол/

 

デザイナー、O.グルーエンの原図をもとに作られたデザインが、モスクワの織物工場「スリーマウンテン・マニュファクトリー」によって制作されました。それらのパターンは、繊コイルなどの、維生産設備の様々なアイテムで構成されていました 。

コイルをモチーフとした柄
出典:カミンスキーN.M.「コスチュームの歴史」

共産主義のイデオロギーに反する、ブルジョワ的な構図には大胆な花柄が象徴として挙げられ、当時そうした柄を排除しようという政治的意図がファッション界の中にも表れ始めましたが、コイルをモチーフとした柄はまさにそうした意図の現れですね。

他には例えば、垂直および水平のストライプ、繰り返しの正方形、円またはコーナーで構成される新しい幾何学的パターンは、アーティストL.ポポフとV.ステパノフによって最初のモスクワ・シッツェナビー工場でに作成されました(下図)。

出典:カミンスキーN.M.「コスチュームの歴史」

しかし、あまりにも斬新で、プロレタリア文化を背景とした、露骨な労働者イメージのテイストを、むりやり何世紀も続いた古い文化と融合させることには、徐々に国民の批判の的となっていくことになります。

1933年、ソ連共産党の機関紙プラウダは、不釣り合いに、かつ機械的に融合されたデザインを、非難する記事を載せます。1933年12月17日、人民委員会の特別決議が採択され、「特別な新しいテーマを導入する名目で、醜悪な絵や不適切な図面を作るのは受け入れられない」と宣言され、一般の人々に受け入れられる、芸術的な生地を生産する必要性をあらわしました。

そして1930年代後半、ソビエトの織物パターンは再び植物と伝統的な幾何学的装飾に代わっていくのです。

ロシアファッションに関するブログはまだ続きます。

 

参考文献およびウェブサイト(すべてロシア語です):
https://russian7.ru/post/kak-poyavilas-kosovorotka-u-russkikh/
https://vrns.ru/analytics/1394
・R.V.サハルジェフスカヤ「衣装の «歴史:古代から近代へ
・カミンスキーN.M.「コスチュームの歴史」
・Далю(ダーリョ)「Толковый словарь живого великорусского языка」

 

 

 

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