前回の「ロシア ファッション ヒストリー ルパシカ オープニング」からの続きです。ルパシカ、サラファンのようなロシア伝統の衣装の歴史をピョートル大帝の時代から紐解きます。
ロシアの民族衣装ルパシカの起源は諸説あるようですが、手に入る資料からの情報を集約すると以下のようになります。
- いわゆる、今あるロシア民族衣装のルパシカやサラファンがいつ登場したかという確固たる分析ができていません。ロシアという国が制定されつつある時にはすでに原型はある程度固まりつつあり、おそらく紀元10~12世紀あたりだろうと推測されています。
上の画像は1073年出版の「スヴャトスラフの選挙人」という書物ですが、この本に収載されているいくつかの絵にサラファンやルパシカの原型ともいうべき衣服を見ることができます。
- ロシアの北と南では、ルパシカやサラファンの装飾に大きな違いがありますが、基本形状には大きな相違はないことが多くの記録からわかっています。
- ロシアの衣装全般に言えることですが、社会レベル、つまり貧富の差、あるいは貴族、兵士、農民などの社会的地位によって、それぞれの層の衣装の装飾や生地に明確な差があります。また普段着とおしゃれ着も、社会レベル毎に明確に分かれていました。
- ロシアの衣服に関係する大きな出来事は、18世紀初頭のロシア帝国のピョートル大帝による国民に対する衣服の規制です。彼はまず「ロシア人の今の衣服は、農民風で進歩的ではない。」と宣言しました。さらに「ロシア風の服やあごひげをそらずに町に入る者へ罰金を科す」法律を発布しました。このことにより、ロシア伝統の衣装は町から離れた農村に追いやられ、いわゆるその後流行するファッションはヨーロッパ風が基調となりました。
- 以降、19世紀終わりまでこの規制は続き、その後のロシアファッションは、時々ロシア回帰が流行の一端としては見られるものの、現在のルパシカに認識されるような特徴が、ロシア国民の普段の服になるという風潮は生まれませんでした。つまり、「ヨーロッパ調の服は先進的で普通は町の人が着るもの」で、「ルパシカやサラファンは普通、田舎の人が着るものだ」という通念が醸成されます。
- 現在に至っては、町も田舎も衣服の価格が下がり、経済格差によるファッションの流行の分断が無いため、ルパシカやサラファンは日常の衣装という認識ではなく、いわゆるロシア伝統の衣装、つまり民族衣装と位置付けられることになりました。
ロシア人嫁の意見;オランダに留学していたピョートルは「ロシアのさらなる発展のためには、近隣ヨーロッパ諸国との貿易を活性化せねばならない。そのためには貿易をする社会レベル、つまり貴族や商人はこれまでのロシア人文化を捨て、ヨーロッパ化すべきである。」と考えたんです。そのためにはまず、外見からということで、古いファッションをヨーロッパ化し、またロシア人男性の典型であるあごひげを禁止する法を制定したとロシアの学校で教えられました。言い換えると、ロシア文化は特殊すぎて近隣から受け入れられないので、ヨーロッパ化してしまおうということですね。ただし、私は思うんですが、それ以降今でもロシア人はヨーロッパ化していないです。大体ロシア人がロシア人らしいのは、広大な大地、寒さ、雪、肥沃とは言えない土地、そしてその恵みであるライムギやビーツ、不足しがちだった動物性たんぱくのような食生活、これらすべての環境がロシア人をロシア人らしくしていたはずなので、当時いくら衣服を変えても、髭をそっても、そして今いくらワインを飲んでも、白いパンを食べてもロシア人とヨーロッパ人が近づくことはありません。
と言ってます。
次回もロシアファッションヒストリーが続きます。
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