このブログのテーマはロシアのファッションのヒストリー、今はルパシカに関してですが、これまでの説明の中で何度もロシアのみならずウクライナも登場してきました。
すでにご存じの方もいるかもしれませんが、現在ルパシカはロシアタイプとウクライナタイプを明確に分けることができます。
いくつかのロシア語ウェブサイトを見てみると、きちんと研究された結果が説明されているものがあったので、探っていきたいと思います。
単純には首の切れ込みの位置が主な相違です。ロシアタイプのルパシカは着ている人の左側にあります。つまり中心からそれているわけですが、ウクライナタイプのルパシカは中央にあります。この違いはどこから生じたのでしょうか?僕はこの点非常に気になったので、ちょっと調べてみることにしました。
Далю(ダーリョ)の著作「Толковый словарь живого великорусского языка」によれば、「ロシアのルパシカに特有な左側の切れ込みは自然ではない。」といいます。つまりルパシカを制作するときの裁断過程から考えて無理があるというのです。ルパシカの昔の作り方を説明しますと、まず大きな部分はボディーに当たる部分で長さ約2メートル幅70㎝程度の長方形の布を裁断します。後はこれを中心に沿っており、首回りの穴をあけるわけですから、布は自然に縦横両方とも真ん中から折るわけです。にもかかわらず、襟だけは中心をずらすと、自然の流れから外れ、かつ手間がもう一つ増えるわけですから、最初は真ん中であったはずだ。という主張です。
これについて異存を唱える人はなく、真ん中からずらす理由は何だったのか、そして一度ずらしたものが定着する理由は何だったのか。が議論の中心となります。
ロシアの学者 Лихачева(リカチョバ)は、「 動いているときに胸の十字架が抜け落ちないようにするため」と説明しましたが、説得力に欠けるということでその後も議論が続きました。
民族学者のДмитрий Зеленин(ドミトリー・ゼレニン)は、コソボロートカ(ロシアタイプのルパシカ)がとても普及した理由を説明する際に、実用性の原則からアプローチしました。 ゼレニンは、他の研究者と同様に、コソボロ-トカが定着したのは15世紀あたりだろうと考えていました。
しかし、多くの研究者が15世紀という時期に矛盾を指摘するようになります。
というのも、 コソボロートカに似た衣服は、その時代つまり15世紀よりずっと前にトルコ人の間で知られていたからです。 またコソボロートカは13世紀のノヴゴロドにすでに存在していたという証拠もあります。 貿易のためのその他の外国人との接触は、ロシア人の衣装にかなり強い影響を及ぼしたと考えられ、12世紀および13世紀の年代記では、ドイツ人のショートドレスが時々ロシアでも見られたいう事実さえ言及されています。
このようにコソボロートカの特徴、左側の切れ込みの出現がいつかという論争には一致した意見はまだ見られていないようです。
いずれにせよ中央から左へ(向かって右)というカットへのアプローチを変更するには、深刻な理由が必要です。 ではその理由の方を見てみましょう。
そのカギとなるのは、タタール人のルーシへの侵攻でした。 タタール人の侵攻以来タタール人をまね、シャツの切れ込みがタタール人のように左側に作られ始めました。タタール人の切れ込みは常に左側にありました。そしてこの点がゼレニンの言う、実用性が理由という説への有力な説明になります。なぜなら、タタール族というのは馬に乗るときに風から身を守るために衣服を必要としたと考えられる遊牧民であったからです。
しかし、まだまだ全ての研究者が、タタールの服に切り欠きが存在することが、ルパシカの外観がここまでロシアに定着したのに十分な根拠であると考えているわけではありません。というのもロシア人はタタール人のような騎馬・遊牧民族ではなく、農耕民族なのですから。
また17世紀まで、中央の切れ込みが左側の切れ込みより優勢であったという証拠はありません。実際にはロシアでのルパシカは、左側のカットと真ん中のカットの両方で縫い付けられていました。 確かに言えることは、伝統的な装いが求められるお祭りやロシア民族をテーマとした歌劇などのステージにおいては、19世紀になってようやくコソボロートカが古代の東スラブ様式のシャツに取って代わり、伝統的な装いになったことです。
では、なぜコソボロートカ(左側にカットのあるルパシカ)がロシア人全てが民族の衣装だと認めるようになったのかと言いますと。これは19世紀のコーカサス人とロシアとトルコの戦争によるものだと言えます。その当時、コソボロートカはほそぼそと日常生活の場にありました。それが海外との戦争に使われる軍服のデザインにコソボロートカが取り入れられ、このことがトレンドセッターとなったのです。
1880年代、軍服の戦いやすさ、つまり動きやすさという利便性のため、それとロシア人に親しみのある形が、つまり民族の誇りを鼓舞するために、身近なコソボロートカのデザインが取り入れらたということです。したがって、軍服としてのコソボロートカの大量生産が始まり、デザインがまず定着し、そしてその後さまざまな布地から縫い付けられ始め、コソボロートカへの種々の刺繍や装飾品が人気を集めていったということです。
いかがでしたでしょうか。調べてみると面白いものですね。
次回のブログもお楽しみください。ロシアファッションヒストリー4
参考文献およびウェブサイト(すべてロシア語、あるいはウクライナ語です):
- https://russian7.ru/post/kak-poyavilas-kosovorotka-u-russkikh/
- https://vrns.ru/analytics/1394
- R.V.サハルジェフスカヤ「衣装の «歴史:古代から近代へ
- カミンスキーN.M.「コスチュームの歴史」
- Далю(ダーリョ)「Толковый словарь живого великорусского языка」
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