ロシア民族衣装のお店キリコシナ
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ロシアファッションヒストリー43 ルパシカの歴史3

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ルパシカやサラファンなど、ロシアのファッションのブログです。ルパシカの歴史についての特集、3回目です。

 

18,19世紀のルパシカ

前回紹介したルパシカは画像の説明からお判りのように、皇帝や貴族のレベルのものでした。この社会層の話が中心になってしまったのは、当時の衣装の保存環境によります。貴族であれば、その人たちの埋葬品としてあるいは代々続く家宝として衣装などが保存されることは多いですが、農民など市井の人々のルパシカは分析したくとも残ってないからです。

さて、19世紀以降は一般人のルパシカにも目を向けることができます。農民や、ロシア正教の僧侶たちのものです。ロシア正教の僧侶と言っても、区別しなければならない観点が一つあります。それは主流派と古儀式派です。

ロシア正教会における古儀式派 (старообрядчество) とは、1666年、主流派と袂を分かった、文字通り伝統を守ろうとした僧侶や信者たちです。旧儀派旧教徒旧儀式派スタロヴェールとも呼ばれ、ニーコン総主教による改革に反旗を翻した人々です。古儀式派は少数派だったため、多くは森に追われ、あるいは自ら隠遁し古い儀式を守り続けました。森の中の簡素な教会で祈りをささげる古儀式派の僧侶達は、ロシアの昔話によく出てくるシーンです。

出典:Public Domain

まずは、古儀式派の僧侶のルパシカですが、彼らのルパシカのカットは、20世紀までほとんど変わらりませんでした。カットはロシア内のそれぞれの地域で同様であり、生地と装飾の豊かさだけが異なりました。

18世紀の農民ルパシカと古儀式派の僧侶のルパシカについての情報はほとんどありません。当時、関心がったのは色だけだったらしく、当時ロシア領だったポーランドの教会は、若い男性が赤いシャツを着ることを禁止していたという記録があります。

アルタイ地域の地図を見てみましょう。

Map of the Russian Federation. Altai Krai.
出典:Public Domain

アルタイ地方では、アルタイに移住したポーランド人とアルタイの高地に住む住民の村々において、チュニック型のカットとサイドカットのある四角いネックラインが保存されているのは興味深いことです(下図)。これらのシャツは、さまざまな技法での豊富な刺繍によって際立っています。

アルタイのポーランド人村のルパシカ
アルタイの高地人の村のルパシカ

 

19世紀、ウラル地域では、丸首のルパシカ、お祝いの場合はシルク生地、日常着には無地のイラクサなどの生地のルパシカが一般的でした。

Map_of_Russia_-_Ural_Federal_District
出典:Public Domain

林業作業員や商人の多くいるウラルの町で見つかったルパシカは、裾と襟の切り込みは通常金色の紐で飾られていました。シルクまたは金糸のレースで裏打ちされた斜めの襟付きのルパシカが多く残っています。結構仕上げが豊かなのが特徴です。この技法は、17〜18世紀の紳士服に由来していると考えられます。19世紀の後半になって、ルパシカの襟は完全にスタンドアップカラーに置き換わりました。

因みにソ連以前はこの地方はビャトカと呼ばれており、ブログ筆者のロシア人嫁の祖祖父はこの地方で商人をしており、かなり裕福だったと、嫁の祖母から聞きました。裕福であるがために革命とともに迫害を受け命を落とす結果になったのですが。

19世紀のウラル地域で見つかった男性用ルパシカのレプリカ、チュニック型で絹製

次に、19世紀のロシア、ペルミ地方、コミ地方のルパシカを見てみましょう。

ペルミ地方
出典:Public Domain

コミ地方
出典:Public Domain

この地方にはすでに止めボタン付きのルパシカのカットがあり、シルエットは15〜17世紀のルパシカのシルエットに似ています(下図)。襟元には飾りの刺繍が豊富に施され、スタンドカラーとなっています。

ペルミの古き良き時代のアンサンブル、レプリカ
背面
同様のタイプのルパシカは、バルト海のポメラニアン派の人々の間で19世紀の終わりに存在しました。それらは、襟もとの飾りのラインが斜めになっていることが特徴です。
19世紀後半、バルト海のポメラニアン教会
ポメラニアン派の間で起こったこのトレンドは、古儀式派のルパシカにも一部伝わり、20世紀初頭の斜めの飾り刺繍が施されたルパシカの外観が説明できます。
斜めの刺繍のあるルパシカ。S. Golubkovskoye所蔵、ロシア、スヴェルドロフスク地方、アラパエフスキー地区

 

これまでは、割と特色のあるルパシカをお見せしてきました。しかし、農民たちが普段着として着用するルパシカのほとんどはもっと地味なものです。ごく一般的なルパシカの一例をお示ししますと、生地は市松模様か生成りで、丈夫なイラクサや麻を材料とし、シルエットも短いストレート型で、低めのスタンドカラーです。

 20世紀初頭、チュニック型のカジュアルなルパシカ レジェフスコイ歴史博物館蔵
一方、農民の人々のものでも、お祝い用のルパシカは、カラーも高く、豊かな刺繍で飾られた、より質の高い白い薄い生地で作られていることがほとんどでした。
20世紀の初め、滑らかな表面の生地を使用した刺繍入りのお祝い用ルパシカ ニジネシンヤチキンスキー博物館

袖についている小さい紙片は「サイズL」ではなくて資料「1」の意味です。お間違えの無いように。

さて19世紀終わりごろから、ルパシカのシルエットが変化し始めます。アーバンファッションと新ロシアスタイルの影響を受けて、ルパシカも凝った作りとなり、ヨークが施されるようになりました(下)。動きやすくなったことでしょう。この時代はロシア革命を挟みますので、都市部であえてルパシカを着用することは、反皇帝の象徴となり、革命的な分子に属する人々とみなされるリスクがありました。

ヨーク付きルパシカを着のシベリア農民組織の代表、1890

 

古儀式主義の僧たちのルパシカとは違うものですが、シャーマンに類する人々が祈祷の時に使ったルパシカは特別の衣服として作られ、徐々に暗い単一色になり、控えめながらも豊富な刺繍は、一般の人が着るお祝い用のルパシカと類似しています。ただ少し地味目であることが重要だったようです。

20世紀初め、祈祷に使われたルパシカ ペルミ地方

いかがでしたでしょうか。今回の画像はレプリカも多く、時代も19世紀となってきましたので、豪華なルパシカを多くお見せすることができました。

次回は20世紀から今世紀までのお話となります。

参考文献およびウェブサイト(すべてロシア語です)

https://vrns.ru/analytics/1394

https://club.osinka.ru/topic-180010?start=15
・R.V.サハルジェフスカヤ「衣装の «歴史:古代から近代へ
・カミンスキーN.M.「コスチュームの歴史」
・Далю(ダーリョ)「Толковый словарь живого великорусского языка」

https://ruvera.ru/istorija_russkoj_rubahi

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