ロシアファッションヒストリーのブログの32回目です。前回前回から民芸装飾品ゲルダンについて特集しています。これまではその原料であるビーズにていての歴史を紹介しました。今回は、ゲルダンについて迫りたいと思います。
ゲルダンの語源
ゲルダンをロシア語表記すると、 гердан となります。これはウクライナ語ですが、この гердан の語源はトルコ語です。ところがロシアでは後のゲルダンを、ガイタンと呼ぶこともあります。表記は гайтан です。гайтан の語源はトルコ語ではなくギリシャ語です。
そしてもともとは、ロシアのガイタンとウクライナのゲルダンは異なったものでした。ほとんどの場合、ロシアのガイタンは大きなビーズから、機械の助けを借りずに手で織られました。一方西ウクライナのゲルダンは、小さなビーズで小さな織り機を用いてつくられており、通常、ガイタンよりもはるかにカラフルなものでした。
おそらく装飾性の観点から、ウクライナ起源のゲルダンがより一般化し、ガイタンが華やかになる過程で両者の区別が不明瞭になり、現在ではロシアでもガイタンという言葉は寂れ、ゲルダンという語に統一されつつあるというのが現実のようです。うちのロシア人嫁も、ガイタンという呼び名は知らなかったそうです。
ゲルダンの歴史
ビーズの発祥の地は古代エジプトで、アラビア語で「ブスラ」と呼ばれる不透明なガラスから人工真珠が作られていました。そのブスラが語源となってビーズという語が生まれたことの可能性については前回紹介しました。古代エジプトではファラオの服を飾るビーズが作られていたということがわかっています。ビザンチン時代、ビーズ製品はヨーロッパに移されました。ヨーロッパでは、19世紀に縫製技術が開花しビーズの装飾性は一層高まりました。そして、ビーズは当時「ガラスの都」のタイトルを保持しているハンガリーで作られ始め、芸術性が高まりました。
スラブ文化とビーズの出会いに関しては、ウクライナの考古学的データで、キエフルーシにこのビーズが到着したことが証明されています。7世紀以降、9から10世紀には頻繁に中東やビザンティウムの国々との貿易関係を通じてガラスビーズを輸入していたようです。
しかし、ビーズそのものの到着は、ゲルダンの到着とは時を異ととするものでした。
ゲルダンの起源はウクライナ西部
ゲルダンは当初、ウールの帯となる部分ビーズのレースの襟の部分を合わせることによって作成されていました。 ウクライナ西部のブコビナとガリシア、そしてトランスカルパティアでは、伝統的に女性は髪や首をゲルダンで飾り、男性は帽子をかぶっていました。
多くの場合、ゲルダンのモデルは全体的に湾曲した編組、またはレース織りの形で作られ、幅は思い思いに決定され、通常正面で接続されます。 こうした形の装飾品は、当時ロシア側でも、ウクライナの東部でも知られていませんでした。おそらく、ゲルダンの1つの形である、ウクライナのガリシア地方の「Silyanka」は、最初はハンガリーから来たものと推定されています。
ウクライナにおけるゲルダンの発展
ビーズは、19世紀にウクライナの国民文化として急激に広まりました。この時代にさかのぼるビーズジュエリーは、現在ウクライナの博物館のコレクションに多く保存されています。これらを制作するための高度な技術に加え、これらの作品の配色とパターンの美的特性をこれらの博物館で見ることができます。
20世紀の初めには、ゲルダンは衣装の装飾品としての不可欠な部分になりました。ビーズは、ウクライナの西部地域だけではなく、中央のドニエプルと東部に散在する村々に定着しています。
ゲルダンそのものは、装飾として美的要素を与えるだけではなく、彼らは人が社会で占める地位と彼の年齢を表す確実な指標になり、また所有者のお守りの機能も期待されていました。
19世紀初頭のサンプルを分析すると、ゲルダンを作成する最も古い方法は、糸、馬の毛、または釣り糸にビーズを張ることであったと考えられます。織りやすく、かつ耐久性を高めるため糸の先端をワックスに浸しました。
古くから、ウクライナのカルパチア地方の人は、ウクライナの国の遺産としてビーズジュエリーを作成する能力を持ってると考えられています。理由は、勇猛な騒々しい滝、美しい山々、さまざまな花畑、エレガントに塗装された家屋、彫刻が施された窓枠、刺繍の施された台所用品の中で、ビーズの芸術性が育まれたとウクライナの人々は考えています。
いかがでしたでしょうか。さらにゲルダンの話は続きます。
参考文献およびウェブサイト
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