ウラルを超えた民族 バシキール2 ロシアファッションブログ168
ロシアファッションブログです。今回も前回に引き続きウラルを越えた民族、バシキールの情報をお届けします。まずは民族衣装から。
バシキールの民族衣装
バシキールの人々の居住地は広範囲に及びます、このことから服装もバリエーションに富んでいますというのも、人々の居住地の自然環境の影響を受けたからです。ある地域では主な活動は牛の飼育であり、別の地域では農業であり、またある地域では手工業の場合もあります。これらすべてが、バシキールの民族衣装に反映されていることが、バシキールの民族衣装の特徴と言うことができます。
バシキールの民族衣装の特徴は何といっても重ね着です。気象条件に関係なく、バシキール人は下着の下に上着を何層も着ていました。特に祝祭日には幾層もあでやかな服を重ねることがおしゃれでした。
伝統的に、バシキールの民俗衣装には青、黒、緑、赤、茶色、黄色が好まれますが、どれもより自然な色合いが使用されます。
バシキールの人々の服は、冬は暖かく、夏は涼しく、快適さを保つことを目的に作られました。そして宗教上の理由から、バシキール人は胸元や足を見せる開いた服を着る習慣がありません。したがって、民族衣装はゆるいフィット感を持っています。生地は、シルク、ベルベット、サテンが優先されます。装飾には、毛皮、さまざまなビーズ、コイン、刺繡が使用されています。
バシキールの婦人服
バシキールの婦人服の主なアイテムは、kuldekと呼ばれるドレスでした。これは独特の刺繡で飾られていました。広いネックライン、幅広いマチ、胸のひも、折り返しの襟、これらすべてがクルデックの特徴です。
ドレスには、装飾豊かな胸当てを着ていました。この胸当ては悪霊に対するお守りとして役立つと信じられていました。
ドレスの下にはyyshtan(ズボンの一種)を着用し、その上に銀貨で飾られたキャミソールを着用するのが通例でした。彼らはそれを様々な方法で装飾しましたが、地域による特徴がりました。
お祝いの際のドレスいは、alyapkysと呼ばれるエプロンのようなものを着用しました。当初は、このエプロンは家事のために女性が着用するものでしたが、時間が経つにつれて、お祝いの装飾としてみなされるようになっていきました。
紳士服
バシキールの紳士服はそれほど多様ではなく、ュニックに似たルーズシャツ、細いズボン、薄手のローブまたはキャミソールのようなもので構成されています。
アウターとして、ウールのコート、濃い色のガウン、フレアカットのカフタンを着用していました。生地の品質によって、バシキール人あるいはその部族の富のレベルを判断することが可能でした。たとえば、自家製お織物で作られたアウターは、低所得の男性が着るものとみなされていました。
紳士服の特徴はベルトです。
頭飾り
衣装のもう一つの重要なアイテムは頭飾りです。この頭飾りは、所有者の社会的地位、年齢を表し、そして縫い付けられた石はお守りとして機能していました。
裕福な男性の妻は、カシュマウと呼ばれる高価な頭飾りを買う余裕がありました。このアクセサリーは、帽子の形をしており、サンゴ、ビーズ、貴石で刺繍されました。後ろに縫い付けられた長いリボンがカシュマウに、これを被る人に個性と美しさを与えました。リボンにもビーズが刺繍され、フリルが付いていました。
バシキールの少女たちは10歳まで頭を覆わずに外出し、10歳になると頭にスカーフやカシュマウをかぶります。
若い女性は頭飾りとして帽子も使用しました。それらはボール紙、樺皮または革から作られました。
ある程度の年齢の女性は、毛皮の帽子をかぶっていますが、これはタタール人の頭飾りに似たものです。
通常、年配の男性は暗い色合いの帽子をかぶっており、若い男性は明るい色合いの帽子をかぶっていました。
バシキールの祝祭 イイン と サバントゥイ
イインはバシキール人の間で広く普及しており他の祝祭よりもはるかに多くの人々がこの祭に集まりました。伝説では、イインは飢饉の年でも開催されました。この祝祭での決定事項は、aksakals(文字通り「白ひげ」)によって宣言されます。この地位は決定を下し責任を負うことができる一族の長老のことです。
バシキール人のイインでのテーマ
このように、古くからこの祝祭は娯楽だけでなく社会政治的機能も持っていました。
イインの祝祭では、政治的社会的問題の解決後、レスリング、馬術競技、歌と踊りの競技会が開催されます。
祝祭の開催地は、平地や山の、競技を行いやすくかつ観戦しやすい牧草地です。広場は、各部族のメンバーの平等を象徴する円の形で設計されます。食事に関しても、イインのならわしとして、1つの大釜からの御馳走を食べ、1つのボウルからの馬乳酒を飲むなど、各人、各部族の平等を強調しました。
この祝祭も古代から知られており、現在でもバシキール人の多く住んでいる地域では、この祝祭サバントゥイが開催されます。サバンは農具のすきを意味し、トゥイは春まきを意味する、農業に関するお祭りでした。サバントゥイの日は播種の終わりを示し、伝統的には5月末から7月までのいずれかの日に開催されます。サバントゥイの休日は、バシキール人のみならずタタール人によっても広く祝われています。ヴォルガ地方の各民族(チュヴァシ人、マリ、モルドヴィン人、ウドムルト人)、カザフ人、コーカサスの一部のチュルク人(バルカル人とノガイ人)にも同様の休日がありますが、それぞれに特徴があります。 ここではもちろんバシキールのサバントゥイについて取り上げます。
古代のサバントゥイは、バシキール人コミュニティの団結の維持と部属間関係の強化に貢献しました。伝統的に、サバントゥイには自身の民族のみではなく近隣の村の住民も招待されました。村の近くの空き地に、お祝いの広場メイハンが作られ、色とりどりの敷物と織りのテーブルクロスで覆われ、小屋とテントが作られ、柱(コルガ、バガナ)が中央に設置され、女性がリボン付きの枝で木を飾りました。
バシキール人のイスラム教の導入により、将来の収穫のための祈りはモスクでの祈りという形をとりました。ソビエト時代には、最高の機械オペレーターと生産リーダーを称え、この祝祭の日に彼らに褒賞を与えるという伝統が生まれました。
最初に、サバントゥイは個々の農場で個人的い祝われ、次にバシコルトスタンなどの大都市で大々的に祝われます。多くの農場では、家や通りの維持管理、緑化、清潔さを競うコンテストを開催することが伝統となっており、その結果はサバントゥイで発表されています。この伝統は今日まで続いています。
今日、サバントゥイは労働、スポーツ、そして人々の友情を深めるため休日として祝われています。その開催は、播種シーズンの終了後の週末に合わせられます。各地区には、毎年恒例のサバントゥイのために特別に指定されたエリアがあります。
近年のロシアにおける健康志向のため、2019年以降、バシコルトスタンのサバントゥイではアルコールの販売と消費は禁止されています。
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