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ロシアファッションブログ141 ロシア料理の歴史3

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出典:https://p-syutkin.livejournal.com/690679.html
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ロシアファッションブログです。今回は「ロシア料理の歴史」シリーズ3回目です。これまでロシア18世紀までの出来事をお伝えしてきました。

19世紀、ロシア外務省の資料部に勤務したアレクサンダー・ヤコブレビッチ・ブルガコフによる1808年の手紙の抜粋をまずは参照してみましょう。そこには、ロシア貴族の慣習としての無駄遣いに関する苦悩が描かれています。

 

ロシア貴族の晩餐会

「昨日の日曜日、父親が嫌がるほどとても多くの人が夕食に来ました。… これらすべての紳士に私たちの良いワインを与えることは不可能です。 …彼は2時に昼食をとることに慣れているのに、私たちは3時半にテーブルに座りました。なぜ彼は自分の家を見せびらかすのでしょうか。  ?そしてそれは誰のために?」

この文書は、モスクワの貴族が18世紀半ばまでに根差した慣習をどのように放棄し始めたかを示しています。この手紙の著者の父、有名な外交官ヤコフ・イワノビッチ・ブルガコフは、彼がもはや経済的に数多くのゲストを受け入れることができずないと感じていますが、当時の貴族の状態をよく表す表現です。

エリザベス・ペトロヴナ皇后の従者の騎馬像 ゲオルク・プレナーによる絵画 1744- 1755年ロシア美術館/ウィキメディアコモンズ 

その慣習というのは、サロンのテーブルをオープンにすることでした。これは 、ロシアの貴族が、フランスのサロンに相当するものを作るために、 1740年代にエリザベト・ペトロフナ皇后によって導入されました。モスクワとサンクトペテルブルクの貴族は、食堂のドアを開いたままにして、夕食に来たいと思うすべての人を受け入れる義務がありました。

19世紀のサロンの風景
出典:http://io.nios.ru/articles2/99/98/literaturnyy-salon-kak-istoricheskiy-artefakt-v-interaktivnom-obrazovatelnom

 

エリザヴェータ・ペトロヴナは、知識人と貴族はこれらの解放された空間で会うことを義務付けましたが、貴族の生活にある種の社会的多様性を導入しようとしたわけです。さらにそうした饗応には世俗的な部分が消え、家の所有者が提供しなければならなかった信じられないほどの豪華な御馳走に多くの人が驚嘆し、無数の訪問者を迎えるようになったのです。

 

ロシア料理、食文化の分離

ロシア貴族の家を訪問した外国人は、豪華な食事にありつけ、かつ食費を浮かせることができるのでで喜んでしました。彼らはロシア人の並外れたおもてなしについて書いていますが、「ロシアに10年間住んでいるにもかかわらず、自分の家で食事をしたことがない」という外国人が存在するほどでした。そして、ロシアの貴族はすぐにそれが彼らにとって非常に費用がかかることに気づきます。必ずしも女帝の命令によるものではなく、世間一般の裕福な家庭の習慣として、賢い人々、作家、芸術家を家に招待する習慣がロシアの各家庭に出来上がったためです。

2つ目のポイントは、昼食が夕方にシフトする傾向です。そうした傾向はロシアではなくヨーロッパで始まり、肉体労働とは関係がなく、正午に起きて午後3時に昼食をとることができる人口のセグメントに影響を及ぼしました。この変化は19世紀を通して続き、ロシアの貴族には、昼に朝食をとり、夕方昼食をとるという習慣が生まれました。これはフランスや他のヨーロッパの国々でも起こりました。

これら2つのポイントから導かれたロシアの食の文化で起きたことは、貴族階級と、農民を含む労働者階級の食文化の分離です。朝早く起きて生計を立てなければならなかった労働者階級は、2種類の食事をとります。1つ目は非常に合理的で経済的なタイプの食事で、労働に必要な量のエネルギーを体に提供するためのものです。2つ目は、貴族の食事と同様、楽しむための食であり、美的要求を満たす必要があります。もちろん、この考え方は19世紀に始まったのではなく、はるかに早い時期に始まりましたが、それが最も過激に形態化したのが19世紀と考えられています。

 

それではまず初めに、19世紀ロシアの栄養の観点から不合理ともいえる料理、美的ニーズを満たす料理、つまり美食から見ていきましょう。ここではひとつの点に言及することが重要です。まずロシアに、今で言うグルメが現れます。つまり、おいしい料理を高く評価し、食べるのが大好きで、シェフに指示を与え、自分で料理を作ることさえできる人の登場です。

最も有名な例は、ロシアの作家セルゲイ・アクサーコフの家でパスタ料理を自ら準備していたという逸話の残る、ロシアの文豪でもあるニコライ・ヴァシリエヴィッチ・ゴーゴリです。

セルゲイ・アクサコフ
出典:https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%90%D0%BA%D1%81%D0%B0%D0%BA%D0%BE%D0%B2,_%D0%A1%D0%B5%D1%80%D0%B3%D0%B5%D0%B9_%D0%A2%D0%B8%D0%BC%D0%BE%D1%84%D0%B5%D0%B5%D0%B2%D0%B8%D1%87

 

ゴーゴリ
出典:http://odessa-memory.info/index.php?id=382

他の例としては、ロシアの政治家。軍事指導者のミハイル・ヴォロンツォフ伯爵、ベネチアンスタイルのライススープが彼のお得意料理でした

ミハイル・ヴォロンツォフ
出典:https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%92%D0%BE%D1%80%D0%BE%D0%BD%D1%86%D0%BE%D0%B2,_%D0%9C%D0%B8%D1%85%D0%B0%D0%B8%D0%BB_%D0%A1%D0%B5%D0%BC%D1%91%D0%BD%D0%BE%D0%B2%D0%B8%D1%87#/media/%D0%A4%D0%B0%D0%B9%D0%BB:Dawe,_Mikhail_Vorontsov.jpg

画家のヴァシーリー・ヴェレシュチャギンは、料理人に気に入った料理を作らせるのに力を注いだ人です・また、彼の邸宅で料理を称賛する客たちに囲まれて、自分でケーキを作りったりもしました。これらグルメの出現はロシアの新しい食文化における一つの現象でした。

ヴァシーリー・ヴェレシュチャギン              出典:https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%92%D0%B5%D1%80%D0%B5%D1%89%D0%B0%D0%B3%D0%B8%D0%BD,_%D0%92%D0%B0%D1%81%D0%B8%D0%BB%D0%B8%D0%B9_%D0%92%D0%B0%D1%81%D0%B8%D0%BB%D1%8C%D0%B5%D0%B2%D0%B8%D1%87

 


ヴァシーリー・ヴェレシュチャギンの作品   出典:https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%92%D0%B5%D1%80%D0%B5%D1%89%D0%B0%D0%B3%D0%B8%D0%BD,_%D0%92%D0%B0%D1%81%D0%B8%D0%BB%D0%B8%D0%B9_%D0%92%D0%B0%D1%81%D0%B8%D0%BB%D1%8C%D0%B5%D0%B2%D0%B8%D1%87

1883年5月15日、モスクワクレムリンでのディナー ミハイル・ジチーによる絵画 エルミタージュ美術館 

 

このように、ゲストが食事に気を配り、おいしいものを食べさせるというグルメの習慣が定着し、大使へのレセプションやその他の晩餐に関する文書に反映されている無数の料理を提供する伝統は、18世紀の貴族も実践していました。しかし、その後は労働者階級、農民の環境にも残されていきます。例えばデミャノフのウハー(魚スープ)の寓話で知られている伝統があります。この寓話の内容は。自身の作る魚スープの味に自信を有するデミャノフさんが、村の隣人を呼び、もう断っているのにもかかわらず何度も何度もお代わりを出し。食べることを進めたため、ついに誰も彼の家に寄り付かなくなってしまった、という内容です。

ロシアの魚スープ ウハー
出典:http://sakanya.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-2c0c.html

 

さらに、グルメの側面は、19世紀初頭に海外から持ち込まれた鱒(ます)や、ゴーゴリの戯曲「検察官」のクレスタコフに朝食として提供されるラバルダン(鱈、タラ)などの珍しいエキゾチックな料理にゲストを招待する習慣にも関連しています。 ラバルダンは当時オランダから持ち込まれたものです。こうした当時珍しかった料理は、客をもてなすために重宝がられ、ロシアの食文化にとってとても新しいものが定着していくきっかけになりました。

 

貴族の食卓、フランス料理の影響

いつでも多様で洗練された食材を買える余裕のある貴族が当時のロシアに沢山いた訳ではありません。ごく一部のロシア貴族のみが、料理人を維持し、ある種の豪華な食べ物にふける財力がありました。

一般的に、貴族的で豊かな料理は、フランス料理とロシア料理の組み合わせである折衷主義が特徴でした。そして、それらの間のバランスは次の文脈に依存しました。:食事がより儀式的であるほど、フランス料理が多く占め、ロシア料理的なものは、より家庭的な日常の環境で提供されるものでした。

たとえば、トルストイの小説「アンナカレーニナ」では、より庶民的なレービンの好むロシア料理が、貴族的なオブロンスキーの好むフランス料理の習慣と意図的に対比されていることからわかります。

レービンとオブロンスキー(アンナカレーニナ)
出典:https://zen.yandex.ru/media/id/5eac0f79a3f457144fbfce1b/obed-oblonskogo-i-levina-lev-nikolaevich-tolstoi-anna-karenina-6020af4e86f4e22208e0ffda

ある場面で、

レービンはオブロンスキーが普段食べなれているものとは違うと感じてることはわかっています。それでもオブロンスキーはすべてが素晴らしいと言います。「きのこ、イラクサのスープ、チキンとホワイトソース、そして白いクリミアワイン。すべてが素晴らしかったよ(すべてロシア料理)。」

そして、次にオブロンスキーがレービンをイギリスのホテルに招待する場面では

オブロンスキーはフランス料理を注文します。不思議なことに、それらの料理をロシア語で注文しますが、タタール人のウェイターはそれらロシア語の料理名を自動的にフランス語に翻訳して繰り返すというシーンがあります。

さて、今回はここまでです。次回は貴族の家庭でも、農民など一般の家庭でも普及したロシア料理を見ていきましょう。

 

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