ロシア民族衣装のお店キリコシナ
ロシア民族衣装のお店 キリコシナ

ロシアファッションブログ140 ロシア料理の歴史2

未分類
出典:https://skazka-dubki.ru/zhizn-slavyan/russkiy-folklor/russkie-narodnye-chastushki/
この記事は約10分で読めます。

ロシアファッションブログです。今回は「ロシア料理の歴史」シリーズ第2回目をお届けします。

ロシアの食に関する資料

さて、この回は16世紀にさかのぼってお話を始めますが、まずはrロシア歴史家Ivan Zabelinの著書「16世紀と17世紀のロシアの女王の家庭生活」からの引用から始めます。

「祖国ロシアの食卓では、他の国とは異なり、あらゆる種類の砂糖、ブリャーニク(甘い焼き菓子、少しスパイシー)、ゆで野菜を訪問客に提供していました。生まれたばかりのピョートル1世のテーブルは、これらのさまざまな食べ物でいっぱいでした。それらの料理の間で、最も目立つ場所は、巨大なブリャーニクと鳥や建物などに形作られた砂糖細工が占め、皇帝一族の饗宴の大切な装飾として機能しました。大きなブリャーニクには、モスクワ州の紋章が描かれています。砂糖菓子の重さは、白鳥-2ポンド、アヒル-0.5ポンド、オウム-0.5ポンドとボリュームがあります。騎手や歩行者がいるクレムリン、そしていろいろなロシアの都市など、砂糖細工の街も作られました。」

砂糖細工を作るこの伝統は、ヨーロッパ、特にイタリアからロシアにもたらされたものです。イタリアでは、すでにすべてのお祝いイベントで16世紀半ばに広く行われていたものです。

ロシア貴族のテーブルのメニューを再現可能とした最初の書物は、1610年にモスクワで統治するよう招待されたポーランドの王子ヴワディスワフのために編集された「皇帝料理のリスト」でしたが、彼はロシアに来ることはなく、20歳でポーランドの王ヴワディスワフ4世になりました 。

ヴワディスワフ4世
出典;https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%92%D0%BB%D0%B0%D0%B4%D0%B8%D1%81%D0%BB%D0%B0%D0%B2_IV#/media/%D0%A4%D0%B0%D0%B9%D0%BB:Campana_Ladislaus_IV_Vasa_in_a_cuirass.jpg

 

ロシア皇族は17世紀初頭のロシアの皇帝料理がどのようなものであったかについてかなり詳細なアイデアを得ることができる製品のリストを準備しました。このリストには、材料が詳細に記載されており、また宗教のカレンダーに従って、肉を食べる日と食べてはいけない日(精進料理の日)で分けられています。

 

皇帝料理のリストの一部
出典:Public Domain

 

このリストには、レモン、クローブ、シナモン、コショウ、カルダモン、サフラン、その他の外国のスパイスが多く取り上げられていることが興味深いです。さらに、これら香辛料の量を換算すると、当時のシェフは何と現在の30倍のスパイスを使用していたことがわかります。

 

「1626年2月5日のエヴドキヤ・ルキャノフナ・ストレシュネヴァと皇帝ミハイル・フェドロヴィッチの結婚式」という本から 1730年代 国立歴史博物館 

 

17世紀においては、皇帝料理のリスト」に加えて、1699年の皇帝アレクセイ・ミハイロヴィッチの教育者であるモロゾフの「ボヤール・モロゾフの食卓」、「総主教アドリアナの食物の経費帳簿」が情報源として知られています。モロゾフと言えば、神戸生まれの高級洋菓子ブランド「モロゾフ」はロシア人移民が起こしたブランドです。

モスクワ総主教アドリアナ
出典:https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%90%D0%B4%D1%80%D0%B8%D0%B0%D0%BD_(%D0%BF%D0%B0%D1%82%D1%80%D0%B8%D0%B0%D1%80%D1%85_%D0%9C%D0%BE%D1%81%D0%BA%D0%BE%D0%B2%D1%81%D0%BA%D0%B8%D0%B9)#/media/%D0%A4%D0%B0%D0%B9%D0%BB:Patriarkh_Adrian.jpg

さて、17世紀のロシア総主教アドリアナはほとんどの場合彼の部屋で一人で食事をし、主要な休日にのみゲストを迎えたと言われています。そして、1698年の新年を祝うごちそうがどのように構成されたかが非常に詳細に説明されています。

メニューが、メインテーブルである主人から、大切な客、兵隊、物乞い、その他の取るに足らないゲストが座っていたテーブルに向けてどんどん品数が減り、かつ貧相になっていきます。この席順による料理の違いは、ほぼ習慣化、原則化され、貴族や高位の僧以外にも観察されました。貴族も貧しい人々も、ロシアの誰もがこのモデルに長い間従おうとしました。

この習慣は、英国人を主とした外国人のロシアへの旅行の記録からよくわかります。外国人たちの多くは、すべてのゲストに十分な食べ物が振舞われるわけではなく、最後に座っている人は実質的に空腹のままであることがしばしばあることにひどく憤慨していました。18世紀から19世紀初頭にかけてまで、16〜17世紀のこの貴族のエチケットの名残が地方の家で観察されたとのことです。19世紀ロシア文学、例えばゴーゴリの「死せる魂」では、このようにホストが一番大きな肉をまず初めにほおばるという場面が出てきますね。

こうした習慣があったために、ホストがゲストにお気に入りの料理を振舞ったり、高価な酒、ワインを振舞うと、逆にゲストへの特別な好意と受け取られ、より接待の効果が高かったと考えられています。

出典:https://novosti-ru.ru/lifestyle/12063-russkoe-podvore-eda-dlya-dushi-i-razvlecheniya-dlya-shumnyih-kompaniy.html

 

ロシア料理に影響を与えた外国のレシピ

17世紀はロシアがヨーロッパとの接触を徐々に開放し始め、最初の外国人シェフがロシアに登場する世紀です。1658 年、ニコン総主教の下で、ギリシャのシェフがモスクワに招待され、新しいレシピと調理方法をもたらしました。

ピョートル1世の結婚式(詳細)。アレクセイ・ズボフによるエッチング。1712年©ファインアート画像/ヘリテージ画像/ゲッティイメージズ

 

ロシア料理に対する外国の影響の次の波は、ピョートル1世がドイツ人入植者の料理に興味を示し、ドイツ人シェフのヨハン・フォン・フェルテンを宮殿に招聘したときまでさかのぼります。

さてその後、18世紀の1730年代に、最初のフランス人シェフたちがロシアにやって来ました。彼らはロシア料理の性格を根本的に変えました。フランス料理は、マッシュポテト、パテ、オムレツ、ミートボール、マヨネーズ、あらゆる種類のペストリーなど、まったく新しいタイプの料理をロシアにもたらしました。さらにフランス人はオリーブ(当時はプロヴァンスと呼ばれていました)油と、新しい道具(肉挽き機、ザル、すりわり付きスプーン)などももたらしました。

一方ドイツ人は、さまざまな種類のサラダ、キャベツ、セロリ、肉入りキャベツの煮込み、ミルクスープを持ちこみました。17世紀になると、まず王室に磁器製の食器、クリスタルガラス、ワイングラスが登場しました。ドイツやフランスの輸入ワインはメニューの中でますます重要な位置を占めるようになり、外国産ワインは贅沢の象徴になっていきました。

新しいもの好きのピョートル大帝の時代以来、ロシアの貴族料理の主な特徴の1つは、コスモポリタニズムになりました。食べ物は当時の周辺国のどこからでもやって来るようになったのです。例えば:

アルハンゲリスク子牛肉、

アストラハンラム、

ウクライナ産牛肉、

さらにハンガリーまたはボヘミアのキジ、

カキ、

パルマチーズ、

ボルドー、ブルゴーニュ、ライン、ハンガリー、ギリシャのワインやシャンパン

(外国人はロシアのドン産とクリミア産のワインにも興味を示しましたが。)

デザートとして、プロヴァンスのイチジク、

イタリアのメロンとアスパラガス、パイナップル、桃、ブドウ

がありましたが、当時外国人旅行者を驚かせたが、サンクトペテルブルクとモスクワの温室ですでにこれらも栽培されていたことです。

本格的なレシピ資料の登場

17世紀の「皇帝料理のリスト」や「総主教アドリアナの食物の経費帳簿」は、実際には単に料理のリストであり、これらの文書には調理法は記載されていませんでした。ロシア最初のレシピ本は、ポーランドのレシピ集からの翻訳で、1682年にポーランドで出版され、その後まもなくロシア語の翻訳が出版されました。「Article cooker」という題で、料理人Counts Lubomirsky、Stanislav Chernetskyによるものです。これはすフランスの影響を受けたバロック様式のポーランド料理といえるもので、300以上のレシピが含まれています。この最初のレシピ本は、モスクワとサンクトペテルブルクの資料館に3冊保管されているそうです。

スタニスラフ・チェルネツキーによるレシピ集のタイトルページ 1682年 ウィキメディア・コモンズ

18世紀の終わりと19世紀の初めに、膨大な数のレシピ本が出版されますが、ほとんどの場合ドイツ語から翻訳されたものです。19世紀にはこうしたレシピ本のブームは下火になっていましたが、1861年、ロシア人のエレナ・モロホヴェッツが「若い主婦への贈り物、または家計費を削減する手段」を著し、一躍有名になりました。

「若い主婦への贈り物、または家計費を削減する手段」
出典:https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%9F%D0%BE%D0%B4%D0%B0%D1%80%D0%BE%D0%BA_%D0%BC%D0%BE%D0%BB%D0%BE%D0%B4%D1%8B%D0%BC_%D1%85%D0%BE%D0%B7%D1%8F%D0%B9%D0%BA%D0%B0%D0%BC

エレナ・モロホヴェッツ
出典:https://davaipogovorim.mirtesen.ru/blog/43750469369/Elena-Molohovets.-Upotreblenie-ostatkov

おそらく、18世紀初頭レシピ資料が少なかったことは、それらがプロのシェフが必要としているのみだったという事実によって説明されます。そして、プロのシェフは、彼らが言うように、「手から手へ渡すも」ので、つまり、食を作るために本を読む必要がなかったという理屈で説明されます。日本もそうですよね。そして、エレナ・モロホヴェッツの本の成功は、これらの本が女性のために女性によって編集され、専門家を対象としていないという事実によるものです。

ロシアと他の多くの国にとってフランス料理は当時から有名だったにもかかわらず、ロシアの料理レシピにフランス料理が事実上とても少ないのは興味深いことです。たとえば、フランスでも国際的にも権威であるアントニン・カレームの著書「19世紀のフランス料理の芸術:美食と実践のガイド」は、1828年に書かれたものですが、ロシアでは1860年代になってから、初めて翻訳されました。 強いて言うならば、フランス料理を手掛けるには、高度な専門的調理スキルが必要であったため、当初は受け入れられなかったと考えられています。

 

今回はここまで、「ロシア料理の歴史」は次回も続きます。

 

 

https://mariana-aga.livejournal.com/257116.html

コメント

タイトルとURLをコピーしました