ロシアファッションブログです。前回まで、ロシア女性誌の歴史を1990年まで見てきました。今回は1991年以降、現在までの歴史を見てまいりましょう。
1980年代後半、それ以前は女性誌のテーマは、女性の社会進出・政治活動や労働だったのが、家族生活となり、妻、母親、恋人、ビジネスウーマンを取り上げようになっていました。この点で、1990年代の初めまでに、出版物の構成が根本的に変わったということができます。
ソビエト連邦の崩壊後、党の統制下にあった編集チーム、企業、協会は私企業としての出版社に変わることになります。出版物の広告は、出版社に利益をもたらし始めました。ロシア書院によると、1997年には24の女性新聞と22の女性誌が発行され、さらに徐々に増加し2002年には、62の女性新聞と63の女性誌の発行が記録されています。
ロシアのファッションデザイナー、マックス・チェルニソフ氏が1990年代から2000年代の国内の雑誌の歴史を分析し、以下のように述べています。
«Mini»「ミニ」, «Glamour»「グラマー」, «Cosmo shopping»「コスモショッピング」、などのファッション雑誌ではない一般顧客向けの雑誌が最大の成功を収めた。一方、. «Большой глянец» 「ビッググロス」、 «Vogue»「ヴォーグ」, «L’Officiel»「ルオフィシエル」などのファッション雑誌は、低価格で販売することができなくなり、プレミアムセグメントへの切り替えを余儀なくされ、その結果、小売価格が上昇し、ファッション雑誌が低迷した。、ファッションの分野で一般紙をしのぐ全国的なベストセラーとなった出版物は1つもない。その理由は、デザイナーが模倣、高価格帯雑誌における過剰な広告、他のデザイナーのブランド名の借用などを行っていたからだ。
さらに、こうも付け加えています。
「こうした状況はロシア文化全体のパラノイアです。ロシア人は、自身のルーツとしての、野蛮なスラブ人・タタール人の過去を恥じて、ヨーロッパの「洗練された」ものを好むのです。一般的な認識として、デザイナーのコレクションが西洋のトレンドに当てはまりさえすれば、ロシアのデザイナーは人気を獲得する可能性がたかまります。脳へのこの圧力は、デザイナーが何かオリジナルなことをする大切なチャンスを奪っているのです。」
以上、マックス・チェルニソフ氏の10年前の分析ですが、氏に限らず、そうしたロシアの劣等感と言いますか、西洋至上主義という、ファッションに関しては、日本人にも似た自虐史観という感情を持っていることは事実だとブログ筆者も思います。
そうした感情を認めるとしても、反動としてロシア回帰のトレンドは繰り返し起きており、ファッションの世界は勿論のこと、ロシアの女性雑誌においても小さいトレンドとしてロシア主義、民族主義が光を放ちこれをロシア人たちが歓迎した時期はあったはずです。
しかしながら日本においても、ロシアにおいても、女性文化を考える際、西洋文化が大きく影響してきたことは事実であり、また西洋を師と仰いでいた時期があります。では、まずロシアにおける女性雑誌の内、ヨーロッパからの翻訳により成り立っていたものから見ていきましょう。
ロシアで発行された女性向け洋雑誌
ロシア革命後の時代、ロシアのメディア市場は外国のメディア企業を取り入れ、それがロシアにおける女性誌の西洋化の普及につながりました。ロシア企業と西欧企業との共同出版物の出現は、ロシアの国内資本の欠如と外国投資家の新市場開拓意欲の意思が統合されて生じたものです。以下の国際的な出版グループのロシア支店が登場しました:
インディペンデント:«Cosmopolitan», «Yes!», «Harper’s Bazaar», «Cosmo Shopping», «Cosmo Beauty», «Gloria», «Магия Cosmo»「マジック・コスモ」, «Домашний очаг»「House}, «Women’s Health»)
Hubert Burda:«Oops!», «Mini», «Лиза»「Lisa」, «Лиза. Girl»「Lisa.Girl」, «Даша»「Dasha」
ハーストシュクレフ:≪Elle ≫、 ≪Elle Girl≫、 ≪ Marie Claire ≫
コンデナスト:≪Glamor≫、≪Vogue≫、≪Allure≫、≪Tatler≫
これらの有名女性雑誌のロシア語版は、外国の財源だけでなく、情報や技術的なもののロシアへの普及という意味でもロシアへの貢献は大きいものでした。これらの雑誌はロシアにおけるグローバリゼーションの最初のメッセンジャーとなり、大衆文化の国家外の要素をロシア国家に取り入れました。彼らはインターネット普及の前に、彼らの考え、広告とフォーマットをロシア社会にもたらしました。
西欧の雑誌がロシアにもたらした新しいテーマ、話題は、人生のパートナー、ビジネスウーマン、性的なパートナー、子供たちの先生、新しい女性の関心事などです。
女性向け西欧起源の雑誌の特徴は、厚さ(140〜500ページ)、高品質の印刷、多数のフルカラーのイラスト、豊富な直接および間接的な広告、読者の画像などです。
それでは西欧起源の代表的な雑誌を見てまいりましょう。
≪Cosmopolitan≫コスモポリタン 2005年
Cosmopolitanは、ロシアとヨーロッパで最大の発行部数-1,000,000部の雑誌としてギネスブックに加わりました。ロシアの西洋雑誌史上で初めて、地域別バージョン(コスモポリタン・ペテルブルグ、コスモポリタン・ウラル、コスモポリタン・シベリア、コスモポリタン・ロストフ)が登場しました。それほど発行部数が多く、地域に合わせることができたのだと言えましょう。
≪Elle Girl≫「エルガール」
この月刊誌は10代の少女をターゲットとし、ファッションとコスメの入門書的な出版物として位置付けられています。この雑誌は、テーマとして、映画やスポーツ、ポピュラー音楽、私生活、人間関係も取り上げています。
«Oops!»
これも10代の少女のための雑誌です。ファッション素材、化粧品とパーソナルケアに関する専門家のアドバイス、音楽と映画のニュース、ラブストーリーなどを掲載した月刊誌です。2020年の最新版が見つかりません。ロシアではおそらく2018年前後に廃刊になってしまったようです。
≪Glamor≫「グラマー」2004年
ロシア市場に初めて登場した、ミニバージョンの最初の雑誌です。前出の、ロシアのデザイナーマックス・チェルニソフ氏によると、携帯に便利なポケットフォーマットがロシアでのこの雑誌の成功に貢献している分析しています。彼はまた、一般の人々にキャットウォークファッションの街中での着こなしを提案しました。
«Vogue»
ヴォーグは、競合他社に比べて最も権威のある雑誌として知られている、ロシアの現実に適応したファッション誌と言えましょう。この雑誌は、新しいファッショントレンドや現象の主な指揮者のようなものです。
これらの雑誌は国際的にも有名ですし、日本人にもなじみ深いものですね。では次回は、1990年以降にロシアが生んだ女性雑誌を紹介しましょう。海外で実績を上げてきた国際的な女性雑誌が注目される中、ロシア国産の女性誌はどのような位置づけだったのか、楽しみにしてください。
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