ブログ、ロシアファッションヒストリーです。
前回は1910年以降、ロシア人女性の移民が女優として米国やヨーロッパで活躍した話を取り上げました。同じ時期、元貴族のロシア人女性たちは、やはり彼女らの有している大きな資産、つまり美貌と教養でもう一つの世界を席巻し始めていました。その世界というのがファッションモデル界です。
第一次世界大戦後、パリには革命後のロシアからの移民が殺到しました。このブログで何度か紹介してきたように、彼らは十分な教育を受けており、非の打ち所のない社交マナーがあり、さらに移民の多くを占める貴族の子女たちは流暢なフランス語を話しました。なぜなら、フランス語習得のためにフランス人教師を家庭教師として屋敷に抱えるのが一般的な教育法だったからです。彼女らは単に美しさを有していたのではなく、貴族間の政略結婚をより有利に運ぶため、夜会などで自分の美、教養、品の良さ、つまりそこら辺の女性とは全く違うことを効果的に誇示し得る方法を身に着けていました。こうした能力を武器に、当時のパリにあった多くの人気ファッションブランドに多大な貢献をし、収益ももたらしました。
それえでは、当時パリで活躍した、ロシア人モデル達を紹介していきましょう。
ナタリア・パレ
ナタリア・パレは、モデルからハリウッドの歌姫となった最初のロシア人女性です。彼女は皇帝アレクサンドル2世の息子である大公パベル・アレクサンドロヴィッチの娘です。1917年のロシア革命後、ペイリーは母親と姉妹とともにソビエトを去ってパリへ向かいました。
彼女は当時のパリの有名ブランド YTEBと IRFE のファッションハウスでモデルとして働き始め、すぐにパリのファッション界を征服し、パリ社交界でもその名をほしいままにし、いわゆるフランスにおけるファッションの女王となりました。つまり世界のファッション界における女王と言ってもいいですね。
ココシャネルの紹介により、パレはすぐに名門ファッションハウス Lucien Lelong の経営者と結婚しました。その後Lucien Lelong社はパレのために作られた香水として社名をそのまま使った Lucien Lelong が発売されました。
その後離婚することにはなりましたが、パレは米国に移り、ブロードウェイのプロデューサーであるジョン・ウィルソンと再婚しました。彼女はまた、『西部戦線異状なし』を著した作家のエーリッヒ・マリア・レマルクと長く恋愛関係を続けていたことも有名で、社会に大きな波紋を呼んだこともしばしばでした。恋多き女性というやつです。
いずれにせよ、有名なファッション誌「Vogue」の表紙を何度も飾る、世界的なファッションリーダーであり続けました。
マリア・エリストヴァ
マリア・エリストヴァ Public Domain
グルジア共和国トビリシで生まれですが、幼い頃からサンクトペテルブルクに住んでいました。エリストヴァはグルジア共和国の王族に近い貴族の子女で、サンクトペテルブルグ時代にはアレクサンドラ・フェオドロフナ皇后に直接仕える身分でした。ロシア皇帝ニコライ2世は、彼女の美しさに心を打たれ、「罪深いほど美しい姫である」と言わせたほどでした。
ボルシェビキ革命の後、エリストバは最初はグルジアのコーカサス地方へ、その後他のグルジア貴族らとともにパリへ逃げます。パリでの生活は、元貴族としてのライフスタイルの堅持のためには、収入が無く、持ち金のみでは厳しいものでした。しかし1925年に、彼女はシャネルの仕事に招かれ、お金の心配はなくなりました。
小柄で暗い色の髪のエリストヴァは、1920年代に流行した美のタイプの縮図であり、その時代のシャネルのスタイルに完全に適合するものでした。またココ・シャネルは「本物のロシアの王女」が彼女とともに働くことを心地よく感じていました。シャネルは、当時、多くのロシア移民を支援していましたが、ビジネス上、移民して来たロシア貴族の活用は理にかなった戦略であったとも言われています。
当時、モデルは服を披露するだけでなく、いくつかの外国語で、クライアントが購入する服を説明することも想定されていました。そのため、フランス語を含めいくつかの外国語に堪能なエリストヴァは非常に高く評価されました。
テヤ(エカテリーナ)ボブリコヴァ
エカテリーナ・ボブリコヴァ Public Domain
1927年から1934年まで、エカテリーナボブリコバは Lanvin ファッションハウスの専属モデルでした。Lanvinとの契約終了後、彼女はキャサリン・パレルと呼ばれる自分のファッションハウスを設立しました。その事業は1948年まで続きました。
大きなファッションハウスと同様、キャサリン・パレルは年に2回、小さなコレクションをリリースしました。彼女の顧客リストには、ミシェル・モーガンやリス・ゴーティなど、当時有名なパリの女優や歌手が載っていました。キャサリン・パレルのファッションハウスは、カンヌ映画祭で賞を受賞した映画「ラ・シンフォニー・パストラーレ」を含む様々な映画のコスチュームの作成を任されたほど、ファッションの世界で名実ともに成功したブランドでした。
「ラ・シンフォニー・パストラーレ」の予告編をどうぞ:
リュードミラ・フェドセイエヴァ
リュードミラ・フェドセイエヴァはロシア移民の中で最も有名なモデルという評価もあります。彼女は占領下のフランスでモデルをしており、彼女のキャリアは、すでにファッションマーケティングの重要なツールとなったファッション写真の発展と密接に関連していたと考えられています。
Ludmila Fedoseyeva、パリ、1938 Public Domain
P.ホルスト(彼女を発見した人)、エドワード・シュタイヘン、ジョージ・ホイニンゲンヒューネなどの多くの写真家がフェドセイバヴァを撮影し、これらの写真が、雑誌ヴォーグ、ハーパーズバザールで頻繁に取り上げられました。フォドセイエヴァの古代ギリシャに触発されたドレスを着た彼女のホルストの写真は、今でもファッション写真のゴールデン・スタンダードであると考えられています。
パリが解放される直前に、フェドセイエバはアルゼンチンに一時移りましたが、彼女がパリに戻ったとき、彼女の名声が消え、仕事もなくなったため、1950年には、この最も人気を博した元ファッションスターは、航空会社の一店員となり、最後には移民の高齢施設のヘルパーとして働いたとのことです。人生の紆余曲折を経験した女性です。
イヤ・ド・ガイ(Lady Abdy)
イヤ・ド・ガイ、パリにて1925年 出典:Public Domain
イヤ・ド・ガイの曾祖父は、フランス革命時にロシアに亡命したフランス人です。第一次世界大戦の初めに、ド・ゲイと彼女の母親はドイツに身を置き、そこからスイスをへて、そしてフランスに戻ることができました。
これまでの移民のモデルたちと同様、経済的困窮のため、ド・ガイはカロ姉妹のファッションハウスの門をたたきました。彼女は、当初朝食込みの安月給モデルとして仕事を提供されました。
他のファッションハウスと同様、ファッションハウス カロ においても直接クライアントと接触することは許可されていませんでした。
しかし、クライアントの一人であった裕福なイギリス人男性、ロバート・エドワード・アブディとの恋愛に関してはこうしたお店の決まりごとは何の意味を持たず、レストランにおける偶然の出会い?の後に、その裕福な男爵であるロバートは彼女の夫になりました。彼らは後に離婚したものの、ド・ガイの男爵夫人としての社会的地位は失わなかったので、すぐにココ・シャネルの服をデザインするように誘われ、契約に至りました。
そのド・ガイの姿は優雅さの縮図であると考えられていました。彼女の写真はしばしばヴォーグや他のファッション雑誌に掲載されましたが、大きなファッションハウスは彼女に多数のドレスを提供しました。その後、ド・ガイは劇場に興味を持ち、いくつかの演劇作品に参加しました。また、画家たちもこぞって彼女の肖像画に興味を持ち、多くの絵が残されています。背が高くブロンドで、凛とした姿と誇り高い顔つきを見ると、彼女自身が自分の価値を疑っていなかったことが想像できますね。
いかがでしたでしょうか。この時代の有名モデルはみな高貴な家の出身だったんですね。
さて、この時代のお話はまだ続きます、次回もお楽しみにしてください。
参考文献およびウェブサイト(すべてロシア語です)
・https://www.rbth.com/arts/328686-5-russian-queens-of-silent-cinema
・https://weekend.rambler.ru/read/38912877-kak-russkie-emigrantki-diktovali-mirovuyu-modu/?updated
・https://www.rbth.com/arts/328686-5-russian-queens-of-silent-cine
・http://lamanova.com/16_competitors.html
・https://russian7.ru/post/kak-poyavilas-kosovorotka-u-russkikh/
・https://vrns.ru/analytics/1394
・https://club.osinka.ru/topic-180010?start=15
・R.V.サハルジェフスカヤ「衣装の «歴史:古代から近代へ
・カミンスキーN.M.「コスチュームの歴史」
・Далю(ダーリョ)「Толковый словарь живого великорусского языка」
・https://vladimirdar.livejournal.com/34227.html
・https://www.proza.ru/2016/03/06/208
・https://www.rbth.com/arts/328686-5-russian-queens-of-silent-cinema
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