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ロシアファッションヒストリー25 ロシアファッションの変遷1900-1910

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このブログの一つのシリーズ、ロシアファッションヒストリーの、6,7,8ではロシアの20世紀におけるロシアファッションについて紹介してきました。

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これらで取り上げた内容は、ファッションの中身が主なテーマでした。今回は視点を変えて、ファッションを取り巻くロシアやその周辺国との関連、ソ連の社会主義体制下における社会背景、さらに関連人物を取り巻くエピソードなどの興味深い話を多く取り上げたいと思います。

今回の情報ソースとしては、20世紀、21世紀を通して最もロシアファッションを語るにふさわしい、服飾研究家アレキサンダー・ヴァシリエフのテキストや、彼の有する服飾博物館の展示物の画像を使用します。また画像は、わずかですが我々が自ら撮影したものに加え、Public Domain およびいくつかのロシアのファッションポータルから得られたものを、ソースを明示した上で使用することとします。

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ヴァシリエフ氏はロシア国内外の大学で、ファッション誌を講義するなど、学術的な活動は勿論のこと、いくつかのテレビ番組のMCやタレントに近い活動もなされ、幅広くファッション関連業界にも携わっている方です。よって彼の著したテキストや書籍を参考にすることは、ファッションの歴史を紐解くという意味に加え、多くの興味深いエピソードや、一般には知られていなかった裏事情などを知る良い機会となります。

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それでは今回のテーマである、1900年から1910年のロシアファッションを見ていきましょう。

 

20世紀のロシアのファッション:1900-1910

ヴァシリエフ氏によると、ファッションの歴史は、その時代や後世への価値を見出すことにより、ある年代毎に区切ることができます。まずは1900年から1910年の10年間を区切ることが、20世紀を理解する上で重要との考えをお持ちです。

さて、1700年初めピョートル大帝は、貴族や市民に対して、服飾や付随する外見上のスタイルに関し、法律による厳しい定めを敷き、ロシアのファッションがヨーロッパのトレンドを踏襲する政策を打ちました。その後のエカテリーナ2世時代、ロシア回帰はあったものの、底流としてロシアファッションにおけるヨーロッパ礼賛は変わらず、1900年代 になっても、ロシアの女性のファッションは、2つのファッショナブルなヨーロッパの都市であるウィーンとパリに目を向けていました。そして紳士たちと言えば、英国、つまりロンドンの動きを注視してたそうです。なるほど昔からロンドンの英国紳士は紳士ファッションのアイコンだったんですね。

1900年当時の女性の衣装 出典:V. Chekhovsky

上の写真はオデッサ(今のウクライナ領)で撮られたロシア貴族の婦人の画像です。ドレスのフリルが華やかです。帽子はイタリア製の麦わら帽子で、装飾にベルベットと薔薇が飾られています。麦わら帽子という表現は不適切かも。


女性のファッション

都市部や、裕福な家庭の女性のファッションを見てみましょう。この時代はどこの国でも、いわゆるブルジョワ階級と、ロシアであれば農民の階級とを、そしてより細かく見るならばその中でも、より貧しい、より豊かという観点から分類しないと話はややこしくなります。

当時の上流社会、ブルジョワ階級の女性のイメージは、「美しさ」のみの希求です。そこでは、働くことを前提にした機能性は無視されたということです。ただただ「美しい」スタイルと「モダン」なスタイルの具現化でした。女性のシルエットの基礎は、生きることの不安(経済力、戦争)、日常生活(家事、炊事)の煩わしさ、日常の心配(子育て、夫の浮気)、および肉体労働という要素が完全に欠如しています。その時代のこの階級の女性はほぼ働きませんでしたし、そのような必要性もありませんでした。つまり美しい花、蝶のようなエキゾチックな昆虫、鳥のように優雅であることが女性のイメージでなければならなかった時代です。

その時代のデザイナーは、人魚、雲の中の妖精をイメージすることはありましたが、ぬかるんだ道を歩く姿などは全く考慮しなかったのです。ちなみにロシアの春の典型的な風景はぬかるみです。当時の女性は地面を歩くのではなく、あたかも空中を浮遊している姿が理想でした。女性のイメージは、無重力、開放感、および一時性というわけです。こうしてコルセットが認知され、女性たちの腰は過度に引き締められていた理由が説明できますね。

この時代に作られたドレスのサンプルから、ウエストが42-45 cmの非人間的な数値のものが多数存在しており、首回りと比較できるくらいの数値なのには驚きです。

女性の体形を見ると、ロシアにおいても1900年代の女性の平均身長は、1.55-1.60 mと記録されています。意外と小さかったんですね。また、バストサイズも、現在より豊かだったようです。したがって、当時の女性らしさの一つは、今でいう巨乳(爆乳?)で、コルセットの美的意味はバストの豊満さの強調にあったんです。

今もそうですが、ロシア人はマッサージが大好きです。家でも、ブログ筆者のロシア人妻は機嫌がよければ30分のマッサージをしてくれます。ブラウスを1着買う約束をしなくてもです。ところで1900年代のロシアでもマッサージ師がいて、その目的は豊胸だったようです。また他豊富な種類の形状の綿パッドが見つかっていると資料にあります。残念ながら画像はありませんでした。面白いのは、当時ブラジャーが無かったので、2つの山を見せたのではなく、1つの山脈として強調していたというのが正解です。もし、ロシアや欧米の1900年以前のシーンの映像で、2山の胸を見たら「時代考証がなってない」と批判しましょう。

この時代の女性は「おとり」としてバストを見せ、またバストのために狭く傾斜した肩を強調しようとしました。けれども全体的に体がやせていることは何の得点にはなりませんでした。当時の女性の主な美のテーマは母性だったんです。言い換えれば、子供をたくさん産んで、家を反映させることですね。当時のロシアの人口データがあります。農民の環境では10〜12人の子供が、都市部では6〜8人の子供がいるのが普通であったため、ロシアの人口は1917年までに1億5000万人に達していました。今と大して変わらかったんです。

当時のロシアの女性は決して日光浴をしなかったため、日焼けは下層の人、つまり畑で働く農民の女性の印と考えられていました。ロシア文学を読むと、多くの、「色白の美」の表現がたくさん出てきますね。そして女性はフランスの化粧の手法を取り入れ、米粉のおしろいを塗っていました。資料によると、病的な青白い外観だったともあります。

 

肝心なこの時代の女性のコスチュームの特徴に触れますと、まずは帽子が特徴的なのですが、帽子の形状は幾何学ではなく常に自然がテーマでした。https://www.liveinternet.ru/users/karol-li/post133699148/からの画像を以下に載せます。

 

さらに全体的にこの時代のファッションは、直線や角を好まなかったようです。袖の形や頭飾りなどの形でフォローできますが、花や、昆虫の羽、鳥に似た形がよく使われていました。また 女性のシルエットは縦に伸びるよう、計算されたものが多く、当時の女性は、身長が低いにもかかわらず、特に背中からは実際よりも高く見えたそうです。

 

以上が、1900年からの10年間のファッション、特に女性ファッションのまとめでした。今回はここまで、次回衣装の供給に係る側面も見てみましょう。

参考文献およびウェブサイト(すべてロシア語です):
https://russian7.ru/post/kak-poyavilas-kosovorotka-u-russkikh/
https://vrns.ru/analytics/1394

https://club.osinka.ru/topic-180010?start=15
・R.V.サハルジェフスカヤ「衣装の «歴史:古代から近代へ
・カミンスキーN.M.「コスチュームの歴史」
・Далю(ダーリョ)「Толковый словарь живого великорусского языка」

 

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