前回からの続きです。
「私たちのグループのメンバーが一人、広島で赤十字病院を訪れる事が出来た。その病院は半分破壊された建物で、原爆の被害者の面倒を見ていた。そこに焼けどやその他の傷を負った患者がおり、その中に原爆投下から15から20日後に運ばれた怪我人もいた。そこの2階建て建物には80人ぐらいいた。皆非衛生的な状況におかれていた。主に体の中の覆われていない部分に火傷を負っていた。多くの人がガラスから強い傷を負った。火傷した人は、主に顔と手と足の火傷を負っていた。ある患者は下着と帽子だけで仕事をしていて、体中に大火傷をしていた。火傷した人の体は茶色だった。」
「長崎市は大きな山で二つに別れている : 新市街地と旧市街地。爆弾が新市街地の上に落とされたから、旧市街地の破壊は少なかった。更に爆弾の光線の拡散に山が障壁となった。」
「爆弾はビーチ・ホテルから8キロの距離に落ちた。ホテルのガラスが割れ、屋根の部分が破壊した。警察官によると、ビーチ・ホテルの近くに位置してる地域から、大勢が親戚の安否を訪ねに長崎へ行った。ほぼ全員が死亡してしまった。」
以上は70年前の資料の抜粋です。意識的に淡々とかつ短く書かれた文を多用していますが、それだけに映像を見ているようで、当時の惨状を実感できます。その後、キューバ危機等核戦争の可能性が叫ばれた時期を迎えますが、こうしたレポートがソ連側の戦争回避、少なくとも核戦争回避の意思に反映したことは想像に難くありません。