2015年5月15日にモスクワ国立国際関係大学(МГИМО)において「広島と長崎の爆発から70年記念日」のテーマで会議が開催されました。議長はロシア国家院(Дума)の議長セルゲイ・ナルイシキンでした。ナルイシキン議長は、悲劇的な歴史が繰り返されないよう、「広島と長崎の爆発から70年記念日」の会議の場において70年前のある秘密レポートを開示することを決定しました。
http://rushistory.org/putevoditel/archives/doklad-posla-sssr-v-yaponii-o-sostoyanii-khirosimy-i-nagasaki-posle-atomnykh-bombardirovok.html
このレポートには、原爆投下の一ヶ月の後の、東京にあるソ連大使館による調査が記載されています。当時、ソ連大使は日本やアメリカのメディアを単に信用するのではなく、自ら情報を集めるために、広島と長崎の調査のためのグループを2つ作り、彼らを被爆地に向かわせました。ここではブログ読者の皆様と一緒に悲しみに耐えながら、このレポートからいくつかの部分を日本語に翻訳する事にしました。
これは表紙の部分ですが、報告書の表題はАтомная бомба – 「原爆」です。括弧内のМатериалы о последствиях применения атомной бомбы в Хиросима и Нагасаки. Описания наших очевидцев и данные японской прессы. の意味は「広島と長崎における原爆使用の影響に関する資料。当大使館目撃者の説明と日本のプレスの情報」です。
表紙左上には報告先と日付が記されています。「同志スターリン、ベリア、マレンコフ、ミコヤンおよび私自身へ、1945年11月22日マリツエフ、在日ソ連大使館」
「大使館員のグループが9月14日の夜明けに広島に到着した。強い雨が止ずに降りしきり、その場所の観察、特に写真を撮る事が著しく困難だった。鉄道の駅とそして市全体が、雨からどこにも避難出来ないくらい破壊されていた。駅長と駅員たちが急いで作られた小屋にいた。街は、焦土となった平地と15から20本突き出しているコンクリートの基礎と化した。」
「8月6日、午前8時ごろ広島で非難勧告が解除された。その10分後に町の上にアメリカの飛行機が現れ、同時に落雷に続き強い爆発があった。人々が光線に焼かれ、皆倒れ、あるいは死んでいた。大勢が亡くなった。次いで火災がおきた。青空とともに海風が吹いていた。風上にも火が燃え移っていった。」
次回に続きます。