ルパシカ、サラファン等ロシアファッションについて紹介するブログです。
ロシア ファッション ヒストリー ルパシカ3 からの続きです。
今回はロシア ファッション ヒストリー ルパシカ 1 で登場した、ロシアファッションの歴史に大きなインパクトと与えた人物、ピョートル大帝(ピョートル1世)に関連した内容です。
ピョートル大帝がロシアファッションに与えた影響の背景はほんの少し、以前のブログで紹介しました。しかし、18世紀初頭のロシアにおきたファッションの転換は、政治的、経済的、国家的、総合的な文化生活を根本から変革させるものでした。例えば、西洋との貿易と交流のための国家改革、例えば正規の陸軍と海軍の創立、インフラの再構築、教育、技術、科学、貴族制度等の様式や習慣のヨーロッパ化推進です。この変革には、11年間の古い制度の支持者との過酷で残忍な闘争を伴うものでした。
ピョートル大帝のこれらの変革は、特定の社会層に向けられたものでした。つまりこの時期から、貴族や豪商などの層と、農民など一般大衆の深い溝が作られることとなり、これにともなって生活様式や衣服などの外部形態の相違が明確化していきます。貴族の生活にヨーロッパの習慣が導入され、同時にロシアの若者の留学などヨーロッパ諸国との文化交流の活発化がロシアの貴族の衣装のヨーロッパ化を推し進めていきました
しかし、その過程において、いわば大きな抵抗勢力が存在していたため、単に衣類や靴、髪型、化粧品の古い形態を変更するために、罰金を強制し、その他刑罰を与えるための法令を必要となったほどです。
ピョートル大帝が1700年1月4日に発布した法令によって、貴族や町に住む人々は、古いロシアの衣装を着用することを禁じられ、代わりに次ようなスタイルが強制されました。
- 男性に対して : キャミソール、長いストッキングとバックル付きの靴、白いかつらまたは粉末を施した髪とすること。髭の禁止。
- 女性に対して:広めのフレームスカート、コルセットの着用、深いネックライン、かつら、ハイヒール、派手な装飾品例えばコサージュの着用をすること
このように、ヨーロッパの衣装の主要な形態 (アングロサクソン、ゲルマン、ラテン文化)の様式をもって、 古代ロシアのファッションを完全に置き換えていきました。
ピョートル大帝の改革は、実際にはヨーロッパでフランスのファッションが大流行していた時期と重なっています。しかし、ロシアファッションはこの時オランダとドイツの影響を大きく受けており、このことはピョートル時代の特徴と言えます。特にハンブルグ風と言える、生地や仕上げのシンプルさが反映していることなどからです。
ここに、エルミタージュ美術館に飾られている、ピョートル大帝の衣装の画像があります。もちろん、現在でいう「シンプル」「実用性」とは程遠いものですが、確かに衣装でその威厳や権力を鼓舞していた時代としては、「非常に質素だった」という研究者の表現は理解できますね。
海外からの文化を取り入れることを推進する一方、ピョートル大帝はロシアの工芸品の生産を開発することは妨げず、むしろ海外からの織物やその他の工業製品の輸入を制限しました。そしてそれにより最も活発に発展した産業の一つは繊維でした。まず、軍隊のための布の生産、そして世俗的な服のための絹とリネンは、ピョートル大帝によって強く奨励されています。1717年に彼は高価な外国の生地の輸入を制限する法令を発行し、さらに1718年別の法令を発布しました。「ロシアのメーカーの布からのドレスを着用し、海外のものを着用してはならない」という厳しいものです。ピョートル大帝の時代、モスクワ、サンクトペテルブルク、ヤロスラヴリに絹と麻の工場があります。
18世紀後半はエカテリーナ2世の時代です。エカテリーナ2世のストーリーそのものが面白く、ぜひ書物で読んでいただきたいと思いますが、ロシアのテレビドラマでは何度も取り上げられており、そして最近のものはロシアはもとより、米国や欧州などでもテレビ放映されるほど、質の高い出来栄えです。一応 youtube を張り付けておきますので、張り付けておきますので、必要であれば翻訳機能など使いながらお楽しみください。
そして、ロシアの歴史に強く刻まれたエカテリーナ2世は、その権力を保持している間(1762-1796)、ロシアのファッションについても、絢爛美、豪華さという面で大きな影響力を発揮しました。この期間に各社階層のマナーとして多くの衣装の形を規制する法律が作られました。これらの、当時の必ずしも流行としてではなく、規制されることによって流布された当時のファッションを、ロシアの芸術家レヴィツキー、ボロヴィコフスキー、ロコトフ、アルグノフなどの肖像画によって知ることができます。
紳士服においては、1870年代までの形態の変化はわずかです。ただし70年代後半には、広がったカフスは流行遅れになり、コートも、フランス風、英国風のテールコートに置き換えられ、パンツも太もものラインにフィットしてスリムになり、立ち襟がみられるようになります。
ボロヴィコフスキーの、王子クラキンの有名な肖像画では、彼が「ダイヤモンドの王子」と呼ばれた宝石で豊かに飾られた見事な明るい儀式の衣装で、緑豊かな宮殿の設定を背景に描かれています。
さて、本日はここまでなんですが、エカテリーナ2世の影響に関しては婦人服も紹介したくなりました。このブログはルパシカ(基本的には紳士服)を紹介しようとして始めましたが、婦人服の研究も楽しいので次回はエカテリーナ2世にまつわるロシア婦人服をテーマにしたいと思います。ロシアファッションヒストリー5
参考文献およびウェブサイト(すべてロシア語です):
・https://russian7.ru/post/kak-poyavilas-kosovorotka-u-russkikh/
・https://vrns.ru/analytics/1394
・R.V.サハルジェフスカヤ「衣装の «歴史:古代から近代へ
・カミンスキーN.M.「コスチュームの歴史」
・Далю(ダーリョ)「Толковый словарь живого великорусского языка」
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