ロシア民族衣装のお店キリコシナ
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ロシアファッションヒストリー36 1910年から1930年3

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ロシア人スーパーモデル Anna Selezneva 出典:https://thaisbaby.com/?p=7170
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ルパシカ・サラファンにつながるロシアファッションヒストリーをテーマとしたブログです。今回は1910年から1930年におけるロシアファッションに関するシリーズシリーズの3回目です。

1910年以降ヨーロッパで活躍したロシアのデザイナーとロシアをモチーフに作品をデザインした外国人デザイナー

この時期のヨーロッパに顕著な影響を与えたロシアのデザイナーといえば、ソニア・ドローネという名前に言及しないわけにはまいりません。ソニアドローネは、ルーヴルで個展を開いた最初のアーティストです。ポルタバ出身のユダヤ系ロシア人である彼女は、フランスの画家、ドローネと結婚しました。フランスでは、ソニアドローネは前衛画家であると同時に、非常に人気のあるファッションイラストレーターであり、テキスタイルデザインのクリエイターです。彼女は、マレヴィッチとカンディンスキーの作品に触発され、テキスタイルにおいて抽象的な構成主義的なテーマを開発しました。

1915年ソニア・ドローネ作 ミニーの市場
出典:http://www.rfi.fr/ru/frantsiya/20141120-dinamika-tsveta-na-vystavke-soni-delone-v-parizhe

ソニア・ドローネのデザイン 車とドレス
出典:http://bestin.ua/culture/na-peresechenii-zhivopisi-i-mody-zachem-idti-na-vystavku-soni-delone/

米国Vogue誌の表紙、ソニア・ドローネ のデザイン
出典:https://club.osinka.ru/topic-180010?start=0

 

ロシアのテーマを使い始めたデザイナー、ポール・ポワレはすでに紹介しましたが、そのポールポワレに続く最初の西洋のファッションデザイナーはフランス人のジャンヌ・ランバンです。ええ、あのLINVINです。1922から1923年、彼女はロシアをテーマにしたシャツとブラウスのコレクションを作成しました。

ランバンギャラリーより
出典:https://www.buro247.ru/fashion/expert/chto-sdelalo-zhannu-lanvan-velikoy.html

 

オートクチュールの創始者であるチャールズ・フレデリック・ウォルトのファッションハウスも、ロシアスタイルの影響を免れず、そのコレクションには、ロシアのココシュニクの形に明確に触発された帽子があります。当時ココシュニクはイブニングコスチュームの一般的なアクセサリーになりました。

Charles_Frederick_Worth_Mars_1895
出典:Public Domain

 

この様にヨーロッパにおいてロシア風が流行したため、ロシア風の特色を色濃く出した衣装は、当時の有名女優によってしばしば選ばれました。ロシアスタイルの人気が絶大だったため、英国女王メアリーでさえ結婚式にはココシュニック風の髪飾りを付ける場面もあったそうです。このココシュニックには、白鳥との関連性が見られるようですが、画像では確認できませんでした。

Queen Mary Wedding
出典:https://rebeccastarrbrown.com/2017/02/28/mary-princess-royal-and-countess-of-harewood/

 

ロシア人女優・モデルの台頭

1920年代はロシア人の女優やモデルが世界中で花開いた時代でもあります。よくロシア人の台頭がごく最近のことだと誤解されるのですが、100年も前にこのような華やかな世界でのロシア人の活躍があったことは事実です。残念ながらソビエト時代の鉄のカーテンは、そうした事実やさらにロシア人モデルが活躍することの可能性を摘む結果になったので、世界の人々も、またロシアの人々にさえあまり知られていない事実でした。

1920年代、ハリウッドのロシア人女優が非常に大きな成果を収めた時期でしたし、フランスを中心にヨーロッパにおけるロシア人ファッションモデルは産業的にも大きな貢献を残しました。
貴族の流れをくむロシア移民のおかげで、ファッションモデルの考え方と、ファッションの世界および社会全体で彼らが果たす役割は根本的に変化したと言われています。この時点まで、すなわち、ロシア人人モデルがファッションモデル界を席巻するまでは、業界そのものが汚らわしく、教養のない職業と見なされていました。

ところがファッションモデルになったロシア人たちは、普通のフランス人以上に教養あるフランス語を話し、ヨーロッパの歴史を知り、サンクトやモスクワでの夜ごとの社交ダンスの経験から、その立ち居振る舞いは見事に洗練されたものだったからです。1800年から1900年に書かれたトルストイ、プーシキン、ゴーゴリ、ツルゲーネフなどのロシアの小説を読むと、貴族や大地主がフランス語で話をする場面が非常に多く出てきます。フランス人の家庭教師も頻繁に出てきます。こうした文化的な素地が、ロシア人がフランスにおいて占めることのできた地位や、ロシア人がファッションの世界で活躍し、かつその業界そのものを高めていった理由となるのです。

国を追われた移民でありながら、華麗で、教育もあり、そして美しいロシア人たち、そして生計を立てることを余儀なくされた貴族の代表者たちは、ランヴァン、シャネル、ポワレなどのファッションハウスの最初のトップモデルになりました。彼らはファッションモデルのアイデアを全く新しい高みに引き上げ、モデルの役割を非常に重要なものにしましたが、それは今日まで続いていると言えましょう。

こうしたことの逸話としては、1928年以降、なぜかミスロシアコンテストが何度かパリで開催されたことが挙げられます。

ニナ・トヴェルダヤ
出典:https://club.osinka.ru/topic-180010?start=0

上の画像は1934年撮影、パリのファッションハウス・アーダンの専属モデルであり、1930年にパリで開催されたミスロシアコンテストのファイナリストの1人であるニナ・トヴェルダヤです。

同じ1928年に、米国で「ミス・ニューヨーク」が、ロシアの美人バレリーナであるヴァレンティーナ・カシュボに与えられました。その後ベルリン、ハンブルク、ロンドンなどの都市で開催されたビューティーコンテストでは、ロシア人女性が非常に頻繁に勝者にってきたこと、現在でもモデル界や美人コンテストにおけるロシア人の活躍は皆様もご存じのことと思います。

では、次回からハリウッドで活躍したロシア人女優とヨーロッパで活躍したロシア人モデルとその業績を紹介しましょう。

 

参考文献およびウェブサイト(すべてロシア語です

https://weekend.rambler.ru/read/38912877-kak-russkie-emigrantki-diktovali-mirovuyu-modu/?updated

https://www.rbth.com/arts/328686-5-russian-queens-of-silent-cine

http://lamanova.com/16_competitors.html
https://russian7.ru/post/kak-poyavilas-kosovorotka-u-russkikh/
https://vrns.ru/analytics/1394

https://club.osinka.ru/topic-180010?start=15
・R.V.サハルジェフスカヤ「衣装の «歴史:古代から近代へ
・カミンスキーN.M.「コスチュームの歴史」
・Далю(ダーリョ)「Толковый словарь живого великорусского языка」

https://vladimirdar.livejournal.com/34227.html

https://www.proza.ru/2016/03/06/208

https://wiki.wildberries.ru/%D0%B3%D0%BB%D1%8F%D0%BD%D0%B5%D1%86/%D0%B8%D1%81%D1%82%D0%BE%D1%80%D0%B8%D1%8F-%D0%B6%D0%B5%D0%BD%D1%81%D0%BA%D0%B8%D1%85-%D0%B6%D1%83%D1%80%D0%BD%D0%B0%D0%BB%D0%BE%D0%B2-%D0%B2-%D1%80%D0%BE%D1%81%D1%81%D0%B8%D0%B8-%D0%B6%D1%83%D1%80

 

 

 

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