マスレニッツア(ざんげ節)の意味、歴史そして伝統
ほとんどのスラブ人はこのお祭りについて知っています。しかし、前回説明した内容まではスラブの人なら多くが答えられますが、これから記述するマスレニッツアの意味、歴史、伝統的な側面は正しく理解している人、そう多くはありません。ただし、スラブ・ロシア文化を理解するには、マスレニッツアというお祭りは格好の材料ですので、理解を深めていきたいと思います。
ロシア正教のチーズ週刊とは:
ロシア正教の四旬節の前の1週間は「チーズの週」と呼ばれ、四旬節の準備の週という意味があります。面白いことにロシア正教でいう「チーズの週」は、異教徒は「マスレニッツア」という「バターの週」または「ブリネ(パンケーキ)の週」と呼んでいたのです。
これらの最終日の日曜日は、寛しの日曜日(フォーギブネスサンデー)と呼ばれます。この日に四旬節の一連の準備週が終了します。伝統的にはこのロシア正教の「チーズの週」は四旬節の「導入期間」として1週間ではなくは22日間続いていました。教会は信者の厳粛な精神的ムードを長い時間をかけて醸成したわけです。
四旬節に向けたこのような細心の注意は非常に自然なことです。なぜなら、それがほとんどのキリスト教会の年の典礼全体の中心を占めるものだからです。四旬節の断食は特別な時間で、かつ特別な生活リズムです。当然のことながら、魂の根本的な変化は一夜にして起こるものではありません。何週間かの、心と体の真剣な準備が必要です。
歴史をさらに掘り下げると、キリスト教の「チーズの週」は四旬節関連の儀式の中で最も古いことがわかります。
砂漠に近いパレスチナの修道院の習慣として、地元の僧侶たちは復活祭の前に一人で約40日間を過ごすため、人けのない場所に散らばっていました。
聖週間の初めまでに、彼らは再び集合しました、しかし、何人かは砂漠で死んで帰りませんでした。聖週間の始まりが、実際には僧侶それぞれの人生の最後になる可能性があることに気づき、別れる前の修道士たちはお互いに許しを求め、温かい言葉を交換しました。このように、この日の名前、許しの日曜日が生まれたのです。
修道院起源の習慣である、牛乳のみを毎週の月曜日、水曜日、金曜日に飲むのは伝統的なことでした。これも水のない砂漠に関係しています。砂漠での食糧不足、そして水不足という環境当然、そのような試練の前に、僧侶は栄養を蓄積する必要があります。僧侶たちの食事は十分でしたが、彼らの人生の次の禁欲期間(四旬節)を考慮して、月曜日、水曜日、金曜日のみに断食は許されたが、牛乳だけは飲まねばならなかったと解釈されます。
信徒はこの修道院の伝統を引き継ぎ、それを継承しましたが、時代とともにそれはわずかに異なる意味を得ていきました。一般的なクリスチャンは砂漠に行く必要がなくなっていったため、最初にタンパク質食品で自分自身を強化する必要性がなくなります。しかし、世界には多くの誘惑があり、すぐにすべての戒めを放棄してしまうことは危険です。そのため、断食制限の身は継承されることとなり、チーズウィークでは肉を食べたり結婚式をしたりすることができないままでした。しかし同時に、かつては生きていることを喜び合ったはずの、いわゆるコミュニケーションの楽しさを味わえる宗教イベントとして残ったわけです。
異教の儀式としてのマスレニッツア
一方マスレニッツア(ざんげ節)は、ロシアにキリストの東方正教会を受け入れる、つまりキリスト教の養子になることを受け入れる前からロシアでは知られていました。言い換えれば、スラブ以前の時代に根付いた異教のお祭り、儀式、そして祝日なのです。
当初は教会の伝統から見て、マスレニッツアを「彼ら自身のもの」とは考えておらず、正教会の暦には存在しなかったものです。しかし、前述のようにチーズウィークは存在しており、それらはマスレニッツアとはまったく異なる意味を持っていました。
おそらく、キリスト教は地球上で最も寛容な宗教と考えていいかもしれません。あるいはロシア人の宗教に対する寛容さの表れなのかもしれません。ロシア正教は変容を許す宗教であり、キリストと接触するすべてのものを無力化するのではなく、本来の福音を再解釈するという傾向があるとの解釈がロシアには一部存在します。
よってスラブにおいて、当初正教会は暦にざんげ節を含めていませんでしたが、それでもそれを別の形で受け入れました。教会の努力により、スラブ本来の以前の神聖な意味は失なわれていき、一般の人にとって単純な1週間の休息と楽しみに変わることになりました。
休日としてのマスレニッツア
そもそも、この休日はロシア革命前には今よりもはるかに多面的でした。それはすべての異教の文化に共通する、時間の周期の認識に基づいており、文明が古くなればなるほど、この周期性の考え方に注意が向けられているものです。
プレスラブのマスレニツァは春の初めに祝われました。一般的には春分の日です。現代のカレンダーによると、これはおよそ3月21日または22日です。雪解けが来ると、霜が押しつぶされますが、この状態を、「春と冬は戦っています」とスラブの祖先は表現しました。そして、そこでマスレニッツアによって、きっちりと線引きし、それが寒さが支配する世界の終わりと、その日の訪れによって、その温かい春がついにやってきたことを知らしめるという意味だったのです。
そして、生命があるところには、その増殖があります。節の概念に加えて、マスレニッツアには、生殖能力の活性化の要素を持っています。より馴染みのある言葉で言えば、マスレニッツアの儀式は、地球に奉献し、たっぷりと収穫できるように、地球を力で満たすために行われました。
古代ロシア社会の基盤を形成した農民にとって、収穫は重要な仕事で、ブリネ(パンケーキ)の週の儀式に特別な注意が払われたことは当然のことです。異教の典礼として、スラブ民族は儀式をささげることによって自然に敬意を払ったのです。
もう一つのマスレニッツアの重要なポイントは出産です。地球の肥沃さは、その上に住み、その収穫物を食べている人々に引き継がれています。母なる地球が与えてくれた食物を食べるなら、その人は他の世代に命を与えなければなりません。人生のサイクル、子供への贈与と伝達という考えは、異教徒の意識の鍵でした。命を引き継ぐことが基本的な価値であり、他のすべてはそれを達成する手段にすぎませんでした。ここで、マスレニッツアの期間中その年の新婚夫婦が親たちにもてなされ、また親たちをもてなす日があることを思い出してください。これらは、若い夫婦に出産を促すいわゆる儀式であることが理解されます。
そして、ざんげ節の神聖な構成要素について言える最後のこと。この休日は葬式(あるいは日本でいうところの法事)とも関連しています。農民たちは、祖先の魂が体とともに土の中に眠り、子孫への生殖能力に影響を与える可能性があると信じていました。そのため、祖先を怒らせず、敬意をもって扱うことが非常に重要でした。霊をなだめるための最も一般的な方法は、いけにえ、お祈り、豊富な食事(供物)などの死者への儀式でした。
キリスト教の採用後、皮肉にもマスレニッツアの神聖な意義は実質的には消えてしまい、革命前のマスレニッツアを扱った作家の作品から、現在のロシア人たちが知っている表現型と派手さだけが残っているだけだと考える人々もいます。
いかがでしたでしょうか。マスレニッツアの宗教的な意味が複雑なことがお分かりいただけたことと思います。また、ロシアが長く多神教の国であったこと、後から取り入れたキリスト教との葛藤や妥協、そして融合があったことを理解することにより、ブログ筆者自身にとってもファッション、とりわけスラブ民族衣装の飾りや絵柄の意味が鮮明になってきました。
次回もマスレニッツアの話題は続きます。
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