ロシアファッションブログです。前回は1917年から1928年までのソビエト連邦の女性誌を紹介しました。今回は1928年から1990年までです。
1928年から1945年のロシア(ソ連)女性誌
1930年代、1917年のロシア革命から10年以上が過ぎ、女性誌のメインテーマは、ソ連の工業化や、「ソビエト5か年計画」の成功を賞賛する記事にあふれていました。
1940年代になると、ソ連政府の意向により、女性誌は政府と女性国民とのつながりを築く強力な情報管理の手段として位置付けられることが一層色濃くなりました。
1940年代初頭までに、社会・政治を扱うタイプの女性誌が多く普及しました。雑誌の中身は、国の経済的および政治的プロセスの反映に重きが置かれ、その時代のソビエト女性に関するマスメディアの主な立ち位置となりました。以下の雑誌がこの時期に創刊されています。
«Фотограф» 写真家(1929),
«Искусство и жизнь» 芸術と生活(1929 — 1930),
«Кино и культура» 映画と文化(1929 — 1930),
«Искусство кино» 映画の芸術(1931 — 1940),
«Кино и жизнь» 映画と生活(1929 — 1941),
«Рабочий и театр» 労働者と劇場(1931),
«Деревенский театр» 村の劇場(1931 — 1934),
«Советская архитектура» ソビエト建築(1931 — 1934),
«Искусство» アート (1933 — 1941),
«Колхозный театр»集合農場劇場 (1934),
«Кино»映画 (1935 — 1937),
«Пролетарское фото» プロレタリアの写真(1932 — 1933).
次の2つの雑誌について紹介します。
«Советский экран»ソビエトスクリーン(1925年から1998年)
1925年、隔週刊の雑誌として創刊しましたが、1941年から1956年にかけて休刊しています。この出版物はソビエト崩壊後1991年から1997年までは単なる「スクリーン」と改名されています。また、この当時の雑誌が政治的なものだったことを説明しましたが、この雑誌も、また他の雑誌も、雑誌名だけ見ると政治色の無い、政治プロパガンダとは一線を画すように見えるものもあります。ところが実態は、「ソビエトスクリーン」の出版社が、ソ連の国営ニュース会社プラウダ社であることとか、1931〜1939年は「プロレタリア映画」という名前の雑誌であったこととか、強い政治色をうかがわせる多くの証拠があります。
«Общественница»「社会活動家」1936-1941
主婦、女性管理職、女性エンジニア向けの社会政治誌として発行されました。この雑誌は命名からして内容を彷彿とさせるものです。この雑誌のテーマは、読者を社会的および生産的な仕事に引き付けることでした。雑誌は2つのブロック、「社会政治」と「家族」で構成されていました。主なセクションは、政治教育、社会活動、歴史、手紙、文学が、「社会政治」ブロックに、「家族」ブロックには、家政学、ファッション、裁縫、教育学、医学、料理、子どものページが掲載されていました。
1945年からから1950年
この時期の女性誌は、党の意向が十分に反映されたものとなっています。まずは3つのレベルに分けることができます。一番上部のレベル1には、3つの雑誌があり、すでに紹介した「Worker」、「女性農民」で、もう一つはこれから紹介する「ソビエト女性」です。この3種の雑誌という構成は、党機構の分割の原則(労働者、農民、党員)に基づいているものでした。第2レベルは、共産党中央委員会が各共和国の国語で発行した出版物、第3レベルには各自治共和国が独自に発行する雑誌でした。
雑誌の構成はどれも類似していて、女性の人生の主要な領域のリストを階層的に並べたものです。
政治→仕事(研究)→各組織→レジャー→治療/休息→妊娠/出産/子育て→暮らしのヒント、レシピ、型紙、という順番です。
共産党の指示に従って、出版物のテーマや構成がしばしば変更されました。1945年の中心的なトピックは、農業の発展、平和のための闘争、そして経済改革でした。
1945年以降、ソ連軽工業省が、次のようなファッション雑誌を発行し始めました。
«Журнал мод»ファッション雑誌,
«Ателье мод»ファッションアトリエ,
«Платье»ドレス,
«Сшейте сами»裁縫
«Мода» ファッション
です。
«Советская женщина»「ソビエト女性」 1945年
1945年、ロシア語に加えて、ソ連邦の共和国の言葉であるウクライナ語やカザフ語などいくつかの外国語版で社会政治誌「ソビエト女性」が登場しました。この出版物は、ソビエトのファッション、コスメなのイメージを国主導で形成し、国内外でのソ連の女性のライフスタイルを宣伝することを目的として創刊されたものです。
特に初期の号は海外での宣伝に焦点を当て、他国や自由主義諸国に比してソ連の国家の優位性を誇示しようとしました。内容は、ソビエト連邦の女性ヒーローの伝記、有名な科学者、社会活動家、代表的芸術家が取り上げられ、加えてロシア文学の女性像に関する記事、モスクワ大学に関する資料などでした。また、この雑誌には、「女性の運動」、「故郷」、「戦争の日のソビエト女性」、「素晴らしいロシアの女性」、「5か年計画」、「観光ツアー」、「教育についての協議」、「新しい本」、「若い主婦のためのヒント」、「最近のファッション」のセクションがあり、ソビエトファッションのページは勿論、ソ連の代表的ファッションデザイナー、ナデジダ・ラマノワによるものでした。
1950年代
1950年代に、党は新しい農村成長プログラムを宣言しました。優先事項に、農業への投資促進、購入価格の引き上げ、未使用地の開発が挙げられました。女性誌は、全てこの方針に従って記事が組まれることになっています。
1950年代後半の「解凍」の間、政治的および経済的宣伝の影響度は低下しました。この「解凍」というのは、スターリン時代の有名な粛清を背景として、スパイ嫌疑者の摘発や、西洋先進国との交信制限など、その他もろもろのごく厳しい政治規制をフルシチョフがやわらげた政策をこう呼びます。
とは言っても、論調はソフトになったものの、マスコミで人々を管理、あるいは誘導するという党の意向の反映は変わらず、聴衆に影響を与えるためマイルドに、道徳的および心理学的方法を適用し始めたということです。
女性の雑誌は徐々に、女性の労働条件、家族の生活水準についての資料を提供しはじめましたが、これは、「働け、党に従え」という古い理想と雑誌との関連性が失われたということです。徐々に、雑誌は日常生活と家庭生活で女性を教育するのではなく、むしろ支援することに焦点を合わせ始めました。
1950年代は、著名なアーティストによる絵画やイラストの発表の場としても雑誌が使用されるようになりました。読者がページを切り取って、家の壁に飾るためです。
因みに、スターリンの死後、雑誌「女性農民」は彼の肖像画を喪のフレームとして表紙に載せました。
1960年代
1960年代になると、ソ連では経済危機、都市化、それに応じた田舎の経済的疲弊の影響、そして生産や開発の鈍化が問題となっていきます。こうした背景から、女性の雑誌は、これらの現象と戦うための取り組みについての記事が多くなっていきます。たとえば、雑誌「労働者」は、女性が習得できる職業の紹介を掲載しましたし、雑誌「女性農民」は「農業技術や経験をより広く共有する」ことを提案しましたし、特別なセクションとして「農業化学のABC」や「子供のための化学」なども登場し、農業や関連の科学に関する技術の普及を志向するようになりました。また、この出版物には、映画、文学、さまざまな娯楽情報の出版物を特集した定期的なコラムが登場しました。60年代の「ソビエト女性」表紙をお見せします。
1970年から1980年代
いわゆるソ連の公式雑誌と考えられる「労働者」、「女性農民」、「ソビエト女性」では、女性は依然として共産主義活動家および労働者として定義されてはいましたが、この時代に社会問題化し、よって雑誌に取り上げなければならなかった記事は、日本と同様、出生率の深刻な低下に関連する母親の役割の模範についてです。こうした社会問題があるために、ソ連の雑誌は、イデオロギーよりから、どんどんと、実用的なテーマとなっていったのです。70年代、雑誌「女性農民」は、自由でユニークなファッションによって特徴づけられるようになります。例えば、ごく明るい上着、女性的でロマンチックなブラウス、紳士向けカットを取り入れたスタイリッシュなシャツを着たモデルが登場するようになります。
女性雑誌でも、堅苦しい共産主義の規制が解かれつつある中、1985年にはペレストロイカが始まり、初めて「女性に関する報道において、ソ連憲法によって宣言された女性の政治的および社会的権利と、実際にソビエト女性が社会の中に置かれている状況の矛盾」が取りざたされるようになります。言うなれば、「理想の共産主義と現実は違っているんです」という声が挙げられる環境になってきたんですね。雑誌「Worker」は、女性鉱山労働者、引っ越し業者従業員などの過労に関する資料を、セクション「女性に向かない仕事」を設けて紹介し始めました。
さらに、雑誌「女性農民」の例でいえば、1980年までは、女性の有力党員、女性アスリート、女性パイロット、女性宇宙飛行士がよく表紙に登場していましたが、1981年からは表紙のヒロインとして、干し草の束を持った幸せそうな女の子が登場するようになっていったのです。
«Женщина и Россия».「女性とロシア」1979年
1979年、レニングラード(現在のサンクトペテルブルグ)で、雑誌「女性とロシア」(後の「マリア」)が創刊されました。フェミニストのグループによる出版で、ソビエト女性の生活を、「終わりのない屈辱、いじめ、拷問の連鎖」であると説明し、仕事、家族、刑務所、芸術など、人生のあらゆる分野における深刻な性差別の存在についてを主とした内容でした。いくら何でも、あまりに手厳しい内容だったので、さすがにこの雑誌の編集グループは国から追放されてしまいます。なのでこの雑誌を読めた人々はほんのわずかだったようです。
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