前回はヴァレンキの製法と歴史について紹介してきました。ロシアファッションヒストリー18 ヴァレンキ
実はヴァレンキには多くの逸話があり、それを紹介するとヴァレンキの歴史的意味やロシアの生活の中での位置づけ、ひいてはヴァレンキを通してロシア人やロシア文化を理解することもできそうです。
ではいくつかの面白い逸話を紹介いたしましょう。
ヴァレンキ逸話集
1.ロシアの文豪トルストイのヴァレンキに関する時代考証は間違っていたかもしれない。
ロシアのフェルトブーツつまりヴァレンキはロシア人の意識にしっかりと入り込んでいるようで、何世紀にもわたって存在してると思われています。特にトルストイが著した、「ピョートル1世」など、その他のロシアの著述家も1700年代のヴァレンキについて描写しているからです。
しかし、フェルト製の靴の古さについて広まっている考えは間違ってるというコスチューム史家が多くいます。ピョートルI世の下でも、モスクワ大公ドミトリードンスコイの下でも、フェルトブーツがあったという史実はありません。ロシア最初のフェルトブーツが、18世紀の終わりにニジニノヴゴロド州のセメノフスキー地区に現れたことはわかっているのですが、それ以前の証拠はいかなる民族学的データまたは歴史的文書によっても証明されていません。
2.宗教の争いで、差別の象徴としてヴァレンキが使われた。
ロシアにおける記録でヴァレンキらしきものへの最初の言及の1つは、12世紀の記録の中です。ロシアで最初に作られた靴は、おそらくテーラーメイドだったのでしょう、そこには縫い目がありました。つまりフェルトではないのです。そして、18あるいは19世紀になって初めてフェルトブーツが登場しました。この時代ロシア正教に、主流派と古教義派の争いが生じますが、年代記のいくつかに、古教義派はフェルトの靴を履かされ、ヴォルガの森の厳しい生活に追いやられ、主流派の迫害から身を隠したと言われています。ロシアの小説や昔話に出てくるシーンに、少数派になってきた古教義派が森に追われたり、自ら森に隠れ孤独な宗教生活を送るものだったり、または追われた森で自殺を図るものなどがあります。ロシア人の真面目な一面をよく表していますね。
3.ヴァレンキの呼び名
ロシアで最初にヴァレンキを生産し始めた店は、特に寒い厳しい冬にはすぐに人気店となり、ヴァレンキを示す様々なニックネームができました。例えば、ニジニ・ノヴゴロドの住民はヴァレンキを「ニンジン」と呼び、シベリアでは「豚」と呼ばれていました。また、ヴァレンキの名前は、製造に使用されたウールの種類に依存していました。ヤギの毛のヴァレンキは「アンティック」または「ウェーブ」と呼ばれ、羊毛のヴァレンキは「ワイヤーロッド(鉄線)」と呼ばれていました。さて調べてみましたが、画像が出てこなかったので、外観と呼び名の関係の検証はできませんでした。
4.ヴァレンキが象徴するもの
ロシアではヴァレンキが広く流通しているにもかかわらず、裕福な人々だけが農民の階級からヴァレンキを買う余裕がありました。家族が少なくとも1足でもブーツを持っている場合、家族は繁栄していると見なされました。ヴァレンキは、慎重の上にも慎重に保管され、相続によって母から娘に引き継がれました。万一若い男が自分のヴァレンキを持っていた場合、彼は豊かで嫉妬の対象となる「新郎」と見なされました。
5.ヴァレンキの希少性
18、19世紀はヴァレンキ職人がその需要に対して少ない時代でした。ヴァレンキ作成の技術も秘密裏に継承されていた時代です。そのためヴァレンキ自体に名誉が与えられ、敬意が払われていました。つまり、ヴァレンキをはいての外出から家に入ると、ヴァレンキは入り口に残されず、最も名誉ある者が独占するところ、ペチカ、すなわち温かいところに置かれるという習慣がありました。
当時未婚の女性は、恋焦がれた男性の注意を引くために、垣根越しに男性の家の庭にヴァレンキを投げ入れるという習慣がありました。女性の単なる恋の告白だけでなく、女性の実家の富の証明とも考えられていました。
6.皇帝や政治家たちもヴァレンキを愛用していた
ピョートル大帝がヴァレンキを二日酔いや神経炎の治療に優れた治療道具と考えていたことは、ロシアではよく知られた事実です。そして、熱いお風呂と氷池での入浴の後、ピョートル1世は健康のためキャベツのスープと温かいヴァレンキを所望したことがわかっています。
エカテリーナ2世も足に病を抱え、特別な儀式として黒いウールのヴァレンキで足を温めました。そして、彼女の前女帝であるであるアンナ・イヴァノヴナは、残酷な死刑を多数命令した女帝でしたが、もしヴァレンキがフォーマルな華麗なものであれば、宮廷の女性にヴァレンキをはくことを許した最初の皇帝です。この逸話は彼女の女性らしさ、優しさを表すものとして考えられています。
無駄とは思いましたが、ヴァレンキをはくエカテリーナ2世の肖像画を探しましたが、やはり見つかりませんでした。当たり前ですね。
近代史の政治家もヴァレンキを愛用していました。粛清で有名なジョセフ・スターリンは、ヴァレンキをシベリア亡命中に愛用し、そしてヴァレンキにひどい霜から救われたことを回想しています。ニキータ・セルゲイエヴィッチ・フルシチョフは子供時代のほとんどの冬をヴァレンキをはいて過ごしました。ロシア共産党は多くのヴァレンキを注文しましたが、注文者として共産党トップの名前は示されことはないそうです。ロシアの共産党トップがロシア伝統的なものを身に着けるという事実は国家秘密だったんですね。
7.ヴァレンキは戦争の勝敗を左右する
戦時中、ロシアではヴァレンキがひときわ高く評価されていた時代です。理由というのは、ロシアでは、フィンランドとの戦争はフェルト製品の不足により敗戦したと考えられています。兵士たちが凍えたからです。しかし、ナポレオンとヒトラーに対しては、強い愛国心だけでなく、ロシア祖国の優れた冬の軍服と軍靴としてのヴァレンキのおかげで、当時フランスとドイツをロシアから撃退できたのだと考えています。
8.ヴァレンキの機能は履物だけではない
ヴァレンキは高価で貴重なものなので、冬の寒い時期だけ使うのは経済的ではありません。けれどもすぐにこの問題は解決されたそうです。ヴァレンキは快眠用の枕として使用され始めました。ヴァレンキの固すぎず、かといって柔らかすぎず、そして冬暖かく、夏涼しいのため、夜には枕カバーに入れられることになったそうです。
そして、ロシアでもことさら北方の極寒の村では、ヴァレンキは外に飾られます。彼らはドアに釘付けされ、あるじの名字が書かれます。つまり、郵便物を寒さや雪から守るポストになるそうです。
9.大きいヴァレンキと小さいヴァレンキ
ロシアのいくつかの町(モスクワ、ミシュキン、キネシマ)にヴァレンキの博物館があります。とくにミシュキンにあるヴァレンキは大きさを誇り、高さは168 cm、足の長さは110 cmとロシアの記録に記載されていますした。ただしこの記録は数年前の話で、最近ではいくらでも大きいものはあります。例えば昨年10月の記録として下の画像のような高さ3メートルのヴァレンキがウェブ上に上がっています。上部の方が写真に納まっていませんね。
古典的な技術に従って作られた最小のフェルトブーツは、ロシアの記録簿に登録されていました。足のサイズはわずか6 mmで、ヴァレリイ・ソコロフさんが作ったのですが、もう一人アナトリー・コネンコさんは特殊な製法でで0.9㎜のヴァレンキを作ったそうです。イベントでの試合の結果、2組の小さなフェルトブーツの製作に対し、両方の職人がチャンピオンとして認めらたとのことです。寛大な措置でした。コネンコさんの小さいブーツの画像を本人のブログ記事からお借りしました。
この様にロシアではすべての人に愛され、利用されるヴァレンキですが、ロシアであなたを「ヴァレンキ」と呼ぶ人がいたら、許してはいけません。それはヴァレンキが、「進歩や変化を望まない、無礼で単純な奴」を意味するからです。
これでヴァレンキのお話はひとまずおしまいです。また新たな情報を入手したら皆様にお伝えします。ロシアファッションの話はまだ続きます。ロシアファッションヒストリー20 ホフロマ
参考情報:
- https://www.nkj.ru/archive/articles/12369/ (Наука и жизнь, ロシアのバレンキ)
- http://kulturoznanie.ru/interesno/233-istoriya-valenok-v-rossii.html
- https://www.culture.ru/materials/168744/valenki-obuv-carskikh-dvorcov-i-modnykh-podiumov
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