ウラルを超えた民族 チェチェン ロシアファッションブログ163
ロシアファッションブログです。今回は ウラルを超えた民俗 チェチェンのお話です。ソヴィエト時代には、チェチェン・イングーシ共和国として、文化・人種が類似し、近隣に住んでいた2つの民族が一つの共和国にまとめられていました。しかし現在では独立戦争、いわゆるチェチェン紛争などを経て、ロシア連邦内のチェチェン共和国とイングーシ共和国に分かれています。
チェチェン民族
チェチェン人は約150万人の人々で、主に北コーカサスに住んでいます。 北コーカサスは、ロシアの山岳民族の文化における民族の多様性と豊かな伝統で有名です。もちろん、地域全体の住民にスラブ民族の習慣もありますが、その一方で、北コーカサスの人々はそれぞれ独特で、独自の特別な伝統と文化を持っています。残念ながら、チェチェンでの戦争後、多くの人がチェチェン文化について誤った考えを持っているか、まったく知らないことさえあります。
ウラルを超えたチェチェン民族の人口:(クルガン地域の総人口と割合)
約900(0.1%)
トランスウラルの領土への移住の歴史:
チェチェン・イングーシ国籍の最初にウラルを越えた人々は、1920年代と1930年代に現れました。この時、国は統一化の過程にあり、反乱分子として処分されたチェチェン人は他の民族とともにシベリアに追放されました。
その後かなりの数のチェチェン人が1980年代にトランスウラルに出現しました。そのとき、たとえば、ウレンゴイ-ポマリー-ウジゴロド石油パイプラインなどの大規模な国家経済施設が急速に建設されたため、チェチェンの建設旅団は、お金を稼ぐために絶えずクルガン地域にやって来て、集合農場や州の農場でさまざまな建築物を建てました。90年代半ば、ウラル山脈を越えたチェチェン人の最大の流入が、第1および第2のロシアのチェチェンに対する軍事作戦中に発生しました。その後、チェチェンで落ち着きを取り戻し、経済が力強くなると、多くの人がトランスウラルの地から故郷に向けて立ち去りました。
チェチェンの社会・家族
チェチェン社会の習慣の大きなと特徴として、ヒエラルキーの重視があります。例えば社会的地位が、高い方の層だけが高い建物を建てる権利を持っていましたが、低い方のタイプは原則として本来の専従者として扱われなかったために、そのような権利はありませんでした。チェチェンの部族が異なれば伝統も若干は異なりますが、チェチェンの人々全体の困難な歴史を結びつけるのはこうした習慣が関係したことはことは否めません。また、同根ではありますが長老の尊敬という習慣もチェチェン民族が有しているものです。
チェチェン民族の歴史の悲劇的なページは、20世紀のチェチェン戦争と19世紀後半のコーカサス戦争にとどまりません。1944年2月、50万人以上のチェチェン人が永住地から中央アジアに完全に強制移住されました。一つのターニングポイントは、ソビエト政府が13年間の強制移住後のチェチェン人が彼らの家に戻ることを許可した1957年でした。ソ連政府のテロやゲリラ政策の一環として、人々は山に戻ることを妨げられ、それによってチェチェン人に彼らの儀式や習慣から離れるように仕向けようとしました。
しかし、チェチェンの人々は主に彼らの伝統と文化を維持し、それを若い世代に受け継いでいます。こうして、今日でも残った、チェチェン社会の主要な伝統を上げると、家族間の礼儀の維持と来客への敬意です。
原則として、チェチェン人には多くの子供を持つ家族がいます。さらに、同じ庭の村では、何人かの兄弟が家族と一緒に住んでいます。そしてここには、何世紀にもわたって発展してきた規範と関係のルールがあります。
女性、子供たちの喧嘩、子への叱責のトラブルは長老よって解決されます。子供たちの母親は、気分を害したとしても夫に文句を言うべきではないと考えます。最後の手段として、彼女は夫の親戚にには相談することができます。一般的に、子供の不満、喧嘩、涙に注意を払わないことが良いルール、道徳的と考えられています。
一方子供たちは、彼らの要求と問題は、直接両親ではなく彼らの叔父の1人に頼ることはしばしば起こります。そして、この方法によって彼らの要求が満たされないことはめったに起こりません。親は自分の子供に何かを否定し、子供たちの利益を侵害することができますが、自分の兄弟姉妹の子供たちに同じことを否定するためには、非常に厳格でそれなりの理由が必要だと考えています。
そして、年長者に対する若者の義務だけでなく、若者に対する後者の義務もあることに注意する必要があります。この場合の主な役割は、息子の家族の調和と相互理解の雰囲気を作り、維持することです。そして、チェチェン人の大多数は家族の絆を強めるためにあらゆる努力をしています。さらに、お年寄りは義理の娘への尊敬の念を維持することが求められます。義理の娘の面前で、アルコールを飲んだり、誰かを叱ったり、ドレスコードを破ったりすることは下品であると考えられています。日本で起こるお父さんが下着でうろうろ、ということはチェチェンの家族では起こりません。年寄はいつも息子の妻に対する態度を非常に繊細に気遣うことが求められます。
次に来客への態度です。貧しい家庭でも、突然家に来る可能性のあるゲストのために、オーナーは常にバターとチーズの入ったケーキを保管しています。チェチェンの人々は、客の国民的、宗教的、イデオロギー的所属に関係なく、あらゆる人への親切なもてなしの現れによって特徴付けられることは注目に値します。
多くのことわざ、伝説、たとえ話は、チェチェン人の間でのもてなしの意味を表しています。チェチェン人は、「ゲストが来ないところには、恵みも来ない」、「家のゲストは喜びです」と言います…チェチェンのおもてなしの基本的なルールの1つは、たとえそれが生命へのリスクと関連しているとしても、受け入れることです。
さて次はチェチェンの家族がおもてなしをする際のチェチェン料理を見てまいりましょう。
チェチェン料理
典型的なチェチェン料理をご紹介しましょう。
現代のチェチェンの家庭では、来客に対する定番料理、Zhizhig Galnashがあります。これは餃子入りのゆで肉です。
写真提供:サイト「TastyNotes」
昔はコーンフラワーから作られていましたが、現代では、小麦生地からこの料理を作っています。肉を調理するスープの品質には特に注意が払われています。生地から作られた餃子をその中で味付けをするからです。
必要な材料(3〜4人前):
小麦粉(とうもろこしまたは小麦)-500g
卵-1個
塩-小さじ1杯
水-250ml
肉(次のいずれか:鶏肉、子羊肉、牛肉)-0.5〜1 kg
ベラムガーリックソースの場合:ニンニク1頭、大さじ2のコンソメと適量のお湯、塩のつまみ、黒コショウまたはタイム
調理:
肉(鶏肉、牛肉、羊肉)を鍋に入れてゆでます。塩で味を調えます。
スライド付きのボウルに小麦粉を注ぎます。小麦粉で井戸を作り、塩、卵、水を加えます。よく生地をこねます。生地を2つに分けます。生地を厚さ1cmに伸ばします。幅2〜3cmの細片、幅0.8〜1cmの細片に切ります。ボード上で3本の指で各細片を押します。貝の形に成形します。このガルニッシュを沸騰した茹で肉入りに入れます。混ぜる。柔らかくなるまで10〜15分間調理します。次のガーリックソース(ベラム)をこのガルニッシュと一緒に出されます。
ベラムソースのレシピ:
にんにくの皮をむきます。にんにく潰しに絞るかつぶして、ボウルに入れます。塩とコンソメを加えます。ソース(ベラム)とスープは、すべての人に異なるボウルで提供されます。
ガニッシュを皿に置き、肉を上に置きます。
肉とガニッシュをソースに浸し、スープで洗い流すように添え付けます。
さて料理の紹介が終わったところでひとまず筆をおいて、次号に預けたいと思います。お付き合いありがとうございます。
参考資料
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