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ペレストロイカまでのソビエト料理 ロシアファッションブログ144 ロシア料理の歴史6

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出典:https://www.reddit.com/r/OldSchoolCool/comments/alcogv/employees_of_the_first_mcdonalds_in_the_ussr/
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ペレストロイカまでのソビエト料理 ロシアファッションブログ144 ロシア料理の歴史6

ロシアファッションブログ「ロシア料理の歴史」シリーズをお届けしています。前回からはソビエト料理に焦点を当てています。

ソビエトは共産主義革命以来、事実上国民に食糧を提供することの困難に直面していましたが、スターリンが1935年11月に「ソビエト人民の生活は向上し、人生はより楽しくなった」と宣言することを誰も妨げませんでした。当時の食品産業人民委員会のアナスタス・ミコヤンは1936年1月にこの宣言を取り上げ、党中央執行委員会の第2回会合での報告の中で、「ソ連の食品問題は解決された」と結論付けました。

アナスタス・ミヤコン
出典:https://russia-armenia.info/node/7272

そのため、1935年から1936年にかけて、ソビエト連邦のスローガンは「豊富さの勝利」でした。このスローガンは、有名な「美味しくて健康的な食の本」の1939年の出版を中心に、さまざまな分野で実施されます。

「美味しくて健康的な食べ物についての本」
出典:https://www.labirint.ru/books/21899/

我が家の「美味しくて健康的な食の本」の中のイラスト 

この本は今でもロシアの主婦にとって、バイブルであり、我が家にもロシア人嫁持参の祖母譲りの「美味しくて健康的な食の本」があり、日々のロシア料理のレシピを参照しています。

しかし、このバイブル的な本の出版直後の1939年に、エレナ・モロホヴェッツの料理レシピが出版されたことはあまり知られていませんでした。彼女は、実は1920年当時にソビエトのイデオロギーの主な敵と見なされたブルジョア料理本の著者の1人だったのです。

エレナ・モロホヴェッツ
出典:https://davaipogovorim.mirtesen.ru/blog/43750469369/Elena-Molohovets.-Upotreblenie-ostatkov

「それぞれのカワカマスには、率直に言って黒百人組(905年から1917年のロシアの極右組織の代表者の総称です)。の理想が詰め込まれ、ボルシチには細かく刻まれた君主主義の格言が詰め込まれ、ピロシキには敬虔さが詰め込まれ、下品なブルジョアの香りが絶妙な料理の香りに輝いていました。」

上記の表現のように、世の中の食に対する態度が変化し始め、革命前の体制はイデオロギー上非難されつつも、1929年に敬遠されていた料理そのものは、1939年には完全に復活、そして歓迎されるようになったのです。

当時、「豊かさ」という題名の、宮殿を舞台にある食品産業企業の演劇集団が上演したパフォーマンスがありました。劇の主人公はソーセージでした。人民委員会ミコヤンがこの劇の発案者の一人であり、各出演者はソーセージの並外れた長所について話しました。

CCCPというソーセージ、当時の復刻製品
出典:https://otzovik.com/reviews/sosiski_sovetskie_horoshiy_vkus/

 

レシピ本、「美味しくて健康的な食の本」に戻りますと、この本は当時のソビエトの豊かさのシンボルと言ってもよい書物でした。この本の内容は、いわばブルジョアの革命前の食品の美学についての考えと、栄養価を重視した濃厚で思い食品に対するプロレタリアの欲求との混合物です。1939年の初版では、、著者は常にアメリカ人の食の趣向も取り入れ、ケチャップ、ウイスキーなどのアメリカ料理の特徴である製品も使用しています。この本は、興味深いことに、ソビエト連邦の様々な共和国の人々のさまざまな料理の足し算である、新しいソビエト料理を促進する態度も表現されています。

ソビエト政府は、豊かさと贅沢な(幸福な)生活の主な象徴として、特別な地位を占めるソーセージやさまざまな甘い菓子製品を人々に提示する必要があると考えたようです。

ソビエト政府はチョコレートを休日のおやつやデザートの象徴にしましたが、人民委員会ミコヤンの嗜好はアイスクリームでした。スターリンはかつて、「アナスタス・イワノビッチ(ミヤコンのこと)、あなたは共産主義が良いアイスクリームを作る問題を解決するほど重要な問題はないと考えていますね」と言ったことがあり、ミコヤンはこの発言を決して否定しなかったというエピソードがあります。

ソ連のアイスクリームのポスター
出典:https://svetorusie.livejournal.com/134041.html

さらにシャンパンは繁栄、満腹感、豊かさ、そして魅力のもう一つの兆候になっています。1937年に生産を開始した「ソビエトシャンパーニュ」は、政府のアルコールに対する姿勢という非常に辛い話題に触れることができるという点で画期的な商品です。

ソビエトシャンパンのポスター
出典:https://alcozavr.com/vino/shampanskoe/sovetskoe.html

出典:https://hranim-vino.ru/blog/sovetskoe-shampanskoe-vs-nastoyashhee-shampanskoe/

ロシアのシャンパン文化は大きく浸透しており、嫁とロシアやウクライナを旅行した折、偶然出くわした信念を祝うグループや、結婚を祝うグループからシャンパンを振舞われた経験が幾度かあります。また、ロシア人の嫁も何かの記念には必ずシャンパンを用意します。

ロシアでは、革命戦争の間、1914年に禁酒法が導入されました。10年後、ソビエト国家の指導者たちはそれを廃止することを決定しました。その時、人民委員会の議長はアレクセイ・リコフであり、彼に敬意を表して、ソビエト最初のウォッカは「リコフカ」と呼ばれていました。

リコフカと呼ばれたソ連最初のウオッカ
出典:http://22-91.ru/statya/pervaja-sovetskaja-vodka—rykovka-skazka-o-trezvosti-/17.08.2011

ウォッカの出現が当時ソ連社会で行われていた反アルコール闘争の終わりを意味しなかったのは不思議なことと思われています。アルコール依存症に反対する社会は至る所で活発でしたが、1930年代初頭、イデオロギーのガイドラインと経済優先という政策変更により、ソ連指導部はこの反アルコール闘争に重きを置くことをやめ、1932年にはそのような社会の活動は停止しました。

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現実とは一致しなかったソビエトの食のプロパガンダ

さて、読者の皆様はすでにお気づきのように、ソビエトの料理を語る際、すべてはイデオロギーの闘争とその激しさに依存していたと言っても過言ではありません。たとえば、1935年に推進された、以前閉鎖されたすべての食堂を安価なレストランなどのアクセス可能な施設に変えるというアイデアは、数年後にはごく扇動的になり、1937年には、ケータリング施設を商業化するというこのアイデアを擁護した人々は「害虫」と表現されるほど、こうした政府主導の考え方が否定され始めました。

療養所「Tsentrosoyuz-Kislovodsk」の調理室。1940年©アナトーリーガラニン/ RIAノーボスチ 

ソビエト政府の主な目標は、ソビエト人口に食料を供給するという政府の政策が目に見える結果をもたらしていることを示すことでした。

1950年代半ば、レニングラード芸術アカデミーのイリヤ・グラズノフからの興味深い証言があります。このアカデミー卒業生と学生に、彼らが上演する予定の将来の演劇の主題の候補が提供されました。その一つに、「体重の増加」というトピックがありました。これは、保養所での休暇から戻ってきた人を扱ったもので、体重計で自身の体重を量った後、自分の体重が増えていることに、自身も周りの人たちもとても喜んだというものです。

 

ソビエトの共産主義下の食糧体制を生きぬく方法

このように国内での豊かさが宣伝されてはいましたが、これは決して現実とは一致していませんでした。

人口のさまざまな層に必要な食品を提供する方法の1つは、店頭売りではなくいわゆる配給でした。これは、停滞の時期であるブレジネフ時代に、ほとんどの食品供給組織に対して国が発注し、それを国民に配給するというものです。ソ連時代に配給を得るためにみられた長い行列風景の写真を覚えておられる方も多いと思います。

また配給品を、闇で高く売りさばくというビジネスも横行しました。

こうした状況はすべて、風刺家の作品に反映されています。たとえば、ミハイル・ズヴァネツキーと彼の有名なテキスト「物不足」です。

「あなたは、倉庫管理者、店長、商品担当を介して、裏口を通って、私に会いに来ました。私の店には物がありません。でも聞いてください。誰も持っていないのです。ただ、私自身は持っています!あなたはそれを食べてみたでしょう。言葉を失うほど美味しかったでしょう。あなたは私を尊敬してくださいますか。私はあなたを尊敬しますよ。あなたと私は親愛なる友人同士となりましょう。」

こうして、特別な関係を作り、秘密を共有することで、一定の闇市場作ることをブラットシステム(兄弟組織)といいますが、これはソビエトの人々の生存のための主要な戦略の1つでした。

もう一つの戦略は蓄積でした。ソ連では、国民にアパートが与えられると同時に郊外にダーチャという別荘も与えられます。夏場にはそのダーチャの畑で収穫された野菜を自家用だけではなく、販売用に備蓄をすrという収入獲得手段がありました。女性は食べ物を貯めて、それをお祝いのテーブルで提供したり、売ったりしました。そのため、ソビエトの人々は何ヶ月も、時には何年もの間、お祝いでのロシア定番であるオリビエサラダを作るのに必要なマヨネーズ、輸入キュウリのピクルス、グリーンピースなどの節約が慣習となっていました。

プーシキンスクエアのマクドナルドの列 1990年©ピーターターンリー/ゲッティイメージズ

 

さてこうしたソビエトの食生活における様々な影の問題点は、ペレストロイカの間に再び現れ始めた共産主義イデオロギーの放棄と自由市場への復帰という姿で終わりを告げました。ブログ筆者もペレストロイカ直後のロシアを訪問し、ビジネスカウンターパートから、1990年にプーシキン広場にオープンした最初のマクドナルドに招待されたことを覚えています。

いかがでしたでしょうか。今回でロシア料理の歴史シリーズは終わります。
次回のロシアファッションブログにもご期待ください。
参考資料
https://www.pin-up-pic.com/pin-ap-kartinki-sssr/
https://svetorusie.livejournal.com/134041.html

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