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ロシアファッションブログ138 ロシアのお茶の歴史4

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出典:https://ria.ru/20180212/1514471225.html
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ロシアファッションブログです。今回で138回目、前回に引き続きロシアのお茶の歴史の第4回目です。

 

ロシアでお茶が提供された場所

 

モスクワ居酒屋。ボリス・クストーディエフによる絵画。1916年トレチャコフ美術館/ 出典:ウィキメディアコモンズ

 

自宅以外でも、お茶は重要な飲み物で、茶屋(いわゆる喫茶店)と居酒屋は、革命前のロシアにおける公共のお茶の提供の重要なポイントでした。

居酒屋では、競馬や闘鶏にのような賭博が行われ金銭の授受の場所でした。またおれら喫茶店や居酒屋の軒下には、酒に酔った元役人が住んでいて、区役所への苦情の請願者に代書のアルバイトをしていました。多くの喫茶店や居酒屋が娯楽施設となり、休日にはいわゆる幻灯や蓄音機で大衆を楽しませるようなところでした。

 

日曜の午後。アレクセイコルズーヒンによる絵画。1884年カルキフ美術館 出典:ウィキメディアコモンズ 

また、屋外でのピクニックも人気でしたが、お茶が欠かせない娯楽でした。米英戦争前のモスクワの生活を描いた作家ニコライ・マトベーエフは、次のように回想しています。

「マリイナ・ロシュチャのデビチー近くの市場の中心は、通常、「鐘」として一般に知られている大きなテントが張られていた。テントの上部は旗とクリスマスツリーの緑の枝で飾られていました。このテントの周りには、さまざまな小屋や他のテントが設置され、居酒屋が沢山あり、あらゆる種類のスイーツの売り手が陣取っていました。サマバールは遊歩道全体に張り出したテーブルで湯気を立てていました。香ばしい生姜のスビテン、をウオッカ、ビールそし他にあらゆる飲み物が並べられていました。」

 

 

お茶うけ

 

お茶を飲む商人の妻。ボリス・クストーディエフによる絵画。1923年©ファインアート画像/ヘリテージ画像/ゲッティイメージズ

18世紀以来、現代でもロシアにおけるポピュラーなお茶うけはあまり変わりません。新鮮なベリー、蜂蜜、ジャム、マッシュルーム、フルーツ、ドライフルーツ、クリーム、ミルク、バター、クッキー、パンケーキ、ロールパン、プレッツェル、ベーグル、パイ、クラッカー、ジンジャーブレッド、クルトン、肉料理、そしてもちろんロシアの黒パン(ライムギパン)です。

19世紀に登場したのが、赤身の砂糖(ジャガイモ糖蜜から)、アーモンドミルク(水でアーモンドをすりおろした、この飲み物は空腹を紛らわすために飲まれました)、チョコレート、ワッフル、ビスケット、マシュマロ、マーマレード、ベーグル、フレンチロールなどです。

 

ティークッキーの広告 1906年 イヴァン・ソコロフのコレクションから 

 

お菓子やペストリーに加えて、樽でロシアに持ち込まれた塩付けレモンも、ロシア人お気に入りのお茶の御馳走でした。そして、少なくとも19世紀半ばから、きゅうりのピクルスを添えてお茶を飲むという習慣が知られています。

ロシアの塩漬けレモン
出典:https://tilly.by/prazdnik-jivota/solenye-limony/

 

お茶はただ飲み物という形だけでなく消費されました。19世紀には、お茶の濃縮物がアイスクリームに加えらました。また、19 世紀から20世紀の変わり目には、お茶を加えたパンチが人気でした。そしてそれ以前にも、ロシアのお気に入りの飲み物の1つであるコニャックやラム酒入りのお茶が知られていました。

 

ロシアのお茶の種類

 

本シリーズの冒頭でも、お茶の種類について簡単に記しましたが、おこではもう少し詳しくお話しします。

最高の原料を使用した紅茶のラベル 19世紀後半-20世紀初頭 イヴァン・ソコロフのコレクションから 

 

お茶の種類としてキャフタと広東(配達ルートに沿って)に分けらていたことは説明しましたが、またこれらは品質によりファミリーとレギュラーにも分けられました。ファミリーティーは、有名なサプライヤーからのより高価で高品質のお茶の分類です。裕福な人々はそれを買う余裕がありましたが、一般の居酒屋や喫茶店では、原則として、質の低いレギュラーのお茶が飲まれます。

 

ロシア社会におけるお茶の好みは様々でした。社会のより裕福な層からの愛好家は、いわゆる緑、白、黄色のお茶、そしてまた濃いウーロン茶を好みました。これらの品種は繊細な味わいで、発酵技術も必要でした。また使う水の柔らかさ(硬度、アルカリやアルアリ土塁金属の濃度)や温度なども重要です。ヨーロッパやロシアでは「黒茶(black tea)」と呼ばれている「紅茶」は、他のお茶とは異なり、発酵技術にあまり依存していませんでしたし、かつ安価でしたが、当時はその分味も洗練されてたとは言えなかったようです。

 

 

現在、世界市場に出回っている紅茶のほとんどはブレンドです。1つのティーパックには、ケニア、インド、ベトナム、セイロン(現在のスリランカ)、中国のお茶の混合物が含まれている場合があり、特定のブランドの製造スペシャリストがお茶の味が変わらないように管理しています。

 

一方、革命前のロシアのお茶は生産年ごとに味が異なっていました。生産に成功した年と、失敗した年では全く別の味でした。しかし、一つ言えることは当時は完全に有機栽培で、化学物質混入の心配は全くありませんでした

貿易の発展にもかかわらず、中国から持ち込んだお茶はとても高価だったので、市場には多くの偽物が出回りました。フェイクティーの最も一般的な原材料は、コーカサス地方のベリーの葉とヤナギランなどからできた、別名ウィローティーまたはコポルカというものでした。

 

 

1917年の革命後、ロシアへのお茶の大規模だった輸入は数十年にわたって中断されました。ソビエト連邦では、その間の長きにわたりヨーロッパ地域のお茶を飲んでいました。それは革命の前に設立されたプランテーションで栽培され、ソビエト時代に拡大たものです。20世紀の後半になって、それらヨーロッパ産のお茶にインド産とセイロン産茶葉を混ぜ始めました。なのでソビエト時代のお茶の味と香りは、世界のさまざまな地域のお茶の混合物の味です。今日のブレンドとは違った意味ですが。

 

今回で「ロシアのお茶の歴史」シリーズは終わりです。次回からは「ロシア料理の歴史」について採りあげていきます。乞うご期待。

参考資料

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