ロシアファッションブログです。19世紀ロシア文学登場人物のコスチュームを取り上げ、作品にどのような効果を与えていたかを解説しています。前回までの3回はゴーゴリの作品を取り上げました。今回はプーシキンです。
プーシキンの「エフゲニー・オネギン」におけるの登場人物の衣装
早速このプーシキンの代表作における最初の衣装に関する表現を見てみましょう。
訳書は日本ブック・クラブ、ロシア文学全集、第7巻、7中山省三郎訳 です。
第1篇、4、12ページ:
「今やオネーギンは自由の身、
最新型に髪を切り、
身のこしらえもロンドン風のDandyよろしく、
ついに社交界へと乗って出る。
この例のように、プーシキンはあまり作品の主人公のコスチュームについては説明を加えません。オネーギンの外観の最初の言及はごく一般的なものでした。19世紀から20世紀にかけての一般的な英国紳士のコスチュームのイメージを挙げておきます。
では衣装に関する次の言及を見てみましょう。
第1篇、15、15ページ:
とやかくする間に朝化粧。
ボリヴァル型の 鍔広の 帽子をかぶって
オネーギン、馬車で出かける、並木道。」
帽子の種類「ボリヴァル」は、スペイン植民地だったラテンアメリカの独立闘争のリーダーであるSimon Bolivarの名前に由来します。国名ボリヴィアの由来でもあるし、ヴェネズエラの通貨 ボリーヴァルフエルテも同様です。
そしてボリヴァル型の帽子は、1810年代の終わりに流行し、最も人気があったのは1820年代前半、つまり「ユージンオネーギン」の最初の章を書いたときです。
プーシキンの小説の最初のイラストレーター、A。ノトベクの詩には、ボリヴァル型のイメージが描かれています。
日本ではシルクハットと呼ばれているものですね。
19世紀、当時おしゃれを気にする全ての紳士は、広いつばシルクハットをかぶっていました。そういう意味では、オネーギンがおしゃれで流行に敏感であったことを示す直接的な意味があったことは間違いありませんが、それだけではありません。間違いなく、ボリヴァル型の帽子の暗喩は、自由な思想の精神と考えるべきでしょう。
因みに、ロシアの衣装の歴史におけるボリヴァル型の帽子の流行は短命でした。1825年にはなると、それはもう時代遅れになりましたが、プーシキンが作品に取り上げたためにロシアの文化にとどまったということができましょう。
オネーギンの衣装の次の言及は、社交界に出席するためのおしゃれに関するものです。プーシキンはこのくだりで、貴族紳士の化粧の時間の浪費と主人公の富裕層の社会への依存を非難して、オネーギンの言わば偏見を強調しています。
第1篇、25、26、19ページ:
「実務の人であろうとも、爪の美くらいは考えられる。
わざわざ時流にさかろうて、一たい、何のたしになる?
慣習というものは世人にとって専制君主である。
二代目の×××チャダーエフたる わがエフゲーニイは、
嫉妬まじりの非難を怖れて、
自分の服装のことについては、通を気どり、
われわれのいわゆる伊達者になっていた。
少なくとも、三時間ほどは
鏡の前に過ごして、
やがて化粧室から出てくるところは
移り気なヴィーナスの神が、男の姿で
仮面舞踏会へ行く時のよう。
諸君の好奇の眸を
最も新しい趣味の化粧に惹きつけたからには、
今度は玄人仲間を前にして
彼の身なりを描いてもよかろうはず。
むろん、おこがましい沙汰ではあろうけど、
そもそも描くのは私の商売。
といって、ズボン、燕尾服、チョッキなど、
こんな言葉はわがロシア語に見当たらぬ、
もっとも失礼ながら、実を申せば
私の貧弱なこの詩も、
こんなによその言葉で あやをつけることも
できずにしまったでしょうが、
せめて私がアカデミイ の辞書でも
前に調べていたのなら。 」 ..
この個所に、ズボン、燕尾服、チョッキという3つの衣装アイテムが出てきますが、ロシア語としての名称はまだなく、外来語としても定着していなかったことを示しています。
ズボン:原文では、Панталоны( パンタロン)がつかわれ、ロシア語のштаныやБрюкиは使われず、明らかにフランス風のズボンを意識して使われています。 1810年代の終わりごろに、ロシアでブーツを履いた男性用の長いフランス風ズボンが流行しました。
燕尾服:テイルコート。原文では Фрак 。この言葉には注意が必要です。英国ではフロックコートも燕尾服もテイルコートに含まれますが、本来別物です。ロシアにはフロックコート(Пальто из флока)が先に入ったため、フロックという語も定着しています。
燕尾服は18世紀半ばにイギリスで広く普及したと考えられています。
ロシアの燕尾服の歴史は興味深く、燕尾服はイギリスからというよりも、1789年後のフランス革命後にフランス経由で入ってきました。エカテリーナ2世は、こうしたヨーロッパ化がロシアの国家基盤に対する挑戦と見たため、これを排除すべく面白い方法をとります。
まず、宮殿の召使たちに、フランスからの燕尾服と、やはりフランス文化からのロルネットを持たせました。もちろんTPOにも合わず、強制されたものですから、皆これを嫌がったため、自然に燕尾服の人気はなくなっていきました。
その後の、パーヴェル1世は非常に厳しく行動し、ヨーロッパ的な服装の禁止に対して反抗的な人々に階級の奪取と流刑を課しました。しかしパーヴェル1世の死後すぐにロシア伝統のカフタンの代わりに燕尾服が再度現れたということです。
19世紀になってからはメンズファッションは次第に英語の影響を受けはじめます。ロシアでは、英国のいわゆる「ロンドン風ダンディ」が模倣のモデルとして機能し始めましたが、ファッショナブルなニュースに関するメッセージはフランス語で発信されました(おそらくこの言語が広く普及したためです)。
そこで、これらの情報からオネーギンのいでたちを想像してみましょう。まずはシャツの襟ですが、高いスタンドアップカラーで、後ろ側のいわゆる尻尾は膝の下までの長さで、おそらくコートの袖口にはビロードがあります。このカットは1820年代に流行しました。また、オネーギンの燕尾服の色はどのようなものだったでしょうか、一つ言えることは現在の正装としての燕尾服のような黒では決してありません。19世紀前半の燕尾服は、グレー、赤、緑、青あるいはそれらのマルチカラーの布から縫製されることが普通でしたから。
そして最後に、オネーギンはチョッキ(ベスト)も着ています。ロシアでは、テールコートやパンタロンと同様、ベストも他の国よりも遅れて登場しました。ピョートル1世の治世中、それらの着用は禁止されました。1820年代初頭には、「チョッキ(ベスト)」という名称は外国語として認識されていましたが、実際には1802年(アレクサンドル1世の最初の統治時代)には、チョッキ(ベスト)はきちんとした若い男性の衣装としてロシアにしっかりと定着していました。
チョッキ(ベスト)は燕尾服の空いた前面に現れるものなので、そのカットと生地は非常に重要視されました。
ではその部分のオネーギンの衣装を再現してみましょう。
チョッキ(ベスト)はとても短く、ボタンが半分しかありません。またその下に着るシャツの5つのボタンが見えるように意図的に作られています。そのボタンのうちの1つは馬の毛で編まれ、2つ目はエナメルが施された金、3つ目はカーネリアン、4つ目はべっ甲、5つ目は大きい真珠かもしれません。
アンティークサイトからいくつか掘り出してみましたが、ボタンが違うチョッキは見つかりませんでした。時代は19世紀のものです。
これらは数ある考証のうちの一つですが、少なくとも国境を越えてプーシキンの小説の主人公の服装を理解する上での示唆に富んだ分析内容だと思います。
いかがでしたでしょうか。19世紀ロシア文学シリーズは次回も続きます。
参考文献およびURL:
研究論文「nauchnaya_rabota_trufanova_yu.doc」
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