ロシアファッションブログです。今回から数回にわたり、19世紀のロシア文学とコスチュ-ムをテーマに、お話を進めようと思います。
チェ-ホフ、ゴーゴリ、プ-シキン、ドストエフスキー、トルストイなど19世紀のロシア文学を読むと、多くのコスチュームに関する記述に戸惑うことがあります。重要な場面であれば、ウェブで検索し、ある程度の情報を得て、読み進めますが、やはり我々は19世紀にもロシアにも生きているわけではないので、その場面でその衣装を登場人物に着せることで、どのような効果を期待していたかたを正確に把握することはできません。
このような文学におけるファッションの効果を、いくつかのロシア文学の名作の一節の中から具体例を示しながら解説しようと思います。19世紀のロシア人なら常識として把握しているからこそ、よけいな説明を省きより効果的に人物像や心象風景を描いている場面が多くあります。そこで、日本の読者に当時の衣装の背景を詳しく説明することによって、ロシアの読者と同じように作品の理解を深めていただくことが今回の特集の目的です。
A.P.チェーホフの助言:
A.P.チェーホフが同時代のロシアの作家に対して行った助言に次のものがあります。
「登場人物の女性の貧困を強調するために、多くの言葉を無駄にする必要はありませんよ。また彼女の惨めな外見について話す必要もないですね。ただあなたは彼女が赤いタルマを着ていることだけを言えばいいのです。」
ブログ筆者自身はタルマが何たるかは不案内でしたが、この助言を得た作家は納得したそうです。タルマは以下のコスチュームです。
タルマ -19世紀の前半には男性用のマントを示す言葉で、そして後半には安価な生地で作られた婦人用の袖のないケープを意味しました。ロシアでは、タルマは概して貧しい女性に着用されていました。そして、赤いタルマは長い間身に着けていたものである可能性があり、おそらく素材はすでに色あせています。つまり赤茶けたタルマという意味です。
この例のように、衣装の細部の表現によって、登場人物の見た目だけでなく、衣装や生地の描写の裏側に、運命の変遷が隠されていることがあります。
19世紀のロシアのフィクション作品を私たち日本人が読むとき、私たち日本人は普通別の土地、別の時間にいます。またよしんばロシアにいたとしても前世紀の衣装に関連するほぼすべてのものは、長い間をかけてロシア人たちの日常生活から姿を消してきました。
A.S.プーシキンまたはN.V.ゴーゴリ、F.M。ドストエフスキーまたはA.P.チェーホフに目を向けると、本質的に、私たちは作家が当然のこととして有する多くの重要な情報を理解していませんが、19世紀のロシア人には何の労力もなしにそれらを理解しました。
それでは現代を生きる我々日本人が、19世紀のロシア文学を、当時のロシア人のように読み解くために、ブログ筆者が付箋を貼った衣装に関する部分の解説を試みてみましょう。
先ずは、N.ゴーゴリの「死せる魂」から、訳書は日本ブック・クラブ、ロシア文学全集、第4巻、中村融訳 です。
第2部、第4章、301ページ:
「年の頃は一七八の若者で、バラ色木綿の美しいルパーシカを着込んだのが、色とりどりのあらゆる種類の果実酒を入れた酒壜をもって来て一同の前へ置いた。バターのようにとろりとしたものもあれば、炭酸レモンみたいに泡立っているものもあった。壜を置くと、若者は木に立てかけてあった鋤を手にとって庭の方へ姿を消した。プラトーノフ兄弟のところには、義兄弟のコスタンジョーグロのところと同様に、特に召使というものはいないで、その連中はいずれも園丁だった。或いは、召使はいることはいるが、邸内の農奴たちがいずれも交代でこの仕事をしていた、といった方が適切かも知れない。兄のワシーリイは、常日頃から、召使などという身分はある筈がないという意のその信条で、給仕ぐらいのことは誰でも出来ることだから、そんなことのために特別に人間を雇っておく必要はない、という意向だった。なお彼の説によると、どうもロシア人という奴は、ルパーシカや上張り姿でいる間は真面目で、こまめで、少しも怠け者ではないが、これがひと度、ドイツ風のフロックなどを着込んだが最後、とたんに不器用で、不精な怠け者になってしまって、下着も取りかえなければ、風呂屋通いもさっぱりやめてしまい、夜もそのフロック姿のままで寝たりするものだから、せっかくのドイツ風のフロックの下にはのみやしらみがうじゃうじゃわくようにもなるというのだった。この点では、おそらく彼の説は間違ってはいないであろう。この村では百姓たちが特にしゃれた風をしていて、女たちの頭布にもみんな金色の刺繍がしてあるし、シャツの袖口には、トルコのショールそのままの襞がついていた。」
さて、この段落においてゴーゴリは田舎の青年のルパシカの色をバラ色に設定し、かつ美しいと表現しています。
他の果実酒や、百姓の女たちのカラフルな衣服と反響して、なんだか明るい農奴の生活が垣間見えなくもないです。しかしこの小説は、農奴制を含む当時のロシアの社会を風刺、批判するものと考えられますから、やはり裏の意味を考えてみる必要があります。このバラ色という色は、「燃え尽きた」あるいは「洗いつくされた」という意味があります。
加えて、農奴の家族の女性が高価な金糸のプラトックやキッチュ、トルコ製のショールを手に入れられるはずもなく、これらの表現全体で、貧しい農奴生活をアイロニーとしての表現とみるべきです。当時のロシア人の読者はこの皮肉な表現に対し、ユーモアと、現実としての貧困を感じたはずです。
キッチュ(KIKA)-ロシアの人妻の古い頭飾り。少女の冠とは異なり、髪を完全に隠していた。
さらに主人公チーチコフの友人の兄ワシーリイの言葉の中で、ドイツ風の服装が出てきますが、ここには当時のヨーロッパ化に関する論争が表現されています。
ワシーリイの言葉と「死せる魂」の中の前章の登場人物コシュカレフ大佐の次の言葉とは対照的です。:
第2部、第3章、273ページ:
「それから大佐は、どうしたら民衆を幸福に導くことができるか、ということについてもいろいろとしゃべった。彼の場合には衣服が大きな問題なので、せめてロシアの百姓たちの半数がドイツ風のズボンをはくようになりさえすれば、―学問が進み、商業が興り、ロシアに黄金時代の訪れることは首をかけても保証する、と言った。」
さて、当時のドイツ風のファッションとロシア風のファッションにおけるズボンの違いを明確に説明することは少なくともブログ筆者には説明できませんが、ロシア語のウェブサイト https://lebedinajpesnja1.blogspot.com/2013/07/19.html
によれば、19世紀ごろにズボンの大きなファッションの変遷があったことがわかります。
よって、この流れの中で。ドイツ風のズボンがとても近代的に見えたことが想像できます。
ところで、当時のロシアの文学評論家ベリンスキーは次のように言っています。
「羊革コート、青い軍服、暗いカフタン₍長衣)の代わりにテールコートやフロックコートを着ても、ヨーロッパ人にならない。しかし、なぜロシアでは、これらを着るもののみがが何かを学び、読書に従事しているのか、そしてなぜヨーロッパスタイルに身を包んだ人々だけが、芸術への愛を明らかにしているのか。」
コスチュームに関するベリンスキーの考えは、ピョートル1世のヨーロッパ化(街の人々がロシア風の服を着ることを禁ずる)改革への態度を表明するものです。この改革は、文学界やサロンで絶えず論争の的となっており、一部の人の意見では悲惨なものである、他の人の意見では実り多いという評価でした。
当時のコスチュームについて説明します。
ロシアでは、衣服は人の出身地や階級、財産の状態、年齢などを示していました。時間の経過とともに、社会に伝えることができる概念の数は、生地の色と品質、衣装の装飾と形、装飾品の有無や質によって増加しました。たとえば、少女が結婚可能な年齢に達したかどうか、結婚しているかどうか、子供を持っているかどうか、などを彼女の家族を知らない人々に告げることができました。
ピョートル1世の死後、誰もが以前は禁じられていた燕尾服に身を包むことができるようになります。しかし、それによりテールコートのカット、それが縫い付けられた生地のタイプ、ベストのパターンにより、社会的階層のシステムにおける個人の地位の微妙な色合いをすべて特定することが可能になったといわれています。
さて、「死せる魂」に話を戻しますと、服装の流行に関する当時の論争の内容を垣間見ることができます。ゴーゴリは小説の中で、チーチコフには、衣装の改革によりロシア人が怠け者になるという考えに対して、「この点では、おそらく彼の説は間違ってはいないであろう。」というセリフを言わせ、改革反対という立場をとらせていますが、ゴーゴリ自身の考えなのか否か迄はブログ筆者にはわかりません。少なくとも第2部の3,4章からいえることはそうした論争について読者に問いかけているということです。
いかがでしたでしょうか、日本人にはわかりにくかったこの小説の細部の意味が少しでも明確になったとすれば幸いです。
ゴ-ゴリの「死せる魂」には他にも紹介すべき表現がありますのでまた別の機会に紹介いたします。
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