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ロシアファッションヒストリー41 ルパシカの歴史

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前回はソ連時代の紳士服ファッションについてお話ししました。今回は、ロシアの紳士服と言ったら、やはりルパシカですので、このルパシカの歴史を掘り下げていきたいと思います。

 

ロシアのルパシカの歴史

ルパシカの語源

日本でルパシカというと、すぐに思い出すのが次の形のロシアの民族衣装ですね。

ルパシカ ロシアタイプ
コソボロートカ

ルパシカをロシア語のキリル文字表記をすると、рубашка となります。これはいわゆる愛称の表記で、元の形は рубаха という語で「ルバハ」と読みシャツ」を意味します。愛称というのは、例えば本名ナタリアを、家族や友人がナターシャと呼ぶようにです。ではなぜ上記のようなシャツがрубаха と呼ばれるようになったのか、語源を検討していきますと、これはрбб」という語と同じ語根であり、「造る、切る、形をつくる」という意味から来ています。つまり、1枚の切れからシャツを作る製造工程からシャツを表す単語ができたと考えられています。また上記の形のルバハ、あるいはルパシカは、現代のロシアでは косоворотка、「コソボロトカ」と呼ぶのが一般的です。ただし、このブログでは、日本で一般的に使われている「ルパシカ」を、古代からの男性のシャツを示す時点から使用することにいたします。

中世ロシアのルパシカ

まず欧州の時代区分を確認しておきます。このブログでは、ロシアの時代を、古代、中世、近代、現代と分けますが、古代を西ローマ帝国が滅んだ西暦476年まで、中世を東ローマ帝国(ビザンツ)が滅亡した1453年まで、近世は第二次世界大戦の終戦(1945年)までとし、その後を現代とします。

中世ロシアのルパシカは、当然書物による情報ではなく、発掘など考古学的調査の研究によって明らかにされまつつあります。

ロシアの考古学者が、 ウラジミール・スーズダリ公国の領土で見つかった11〜12世紀の男性用の葬式用ルパシカの詳細な調査を実施しました。

ウラジミール・スズダリ公国の位置
出典:Public Domain

そこで見つかったものは、ルパシカと言っても残されていたのは刺繍が施された破片のみでした。それらは首、裾、袖口部分です。ルパシカそのものの形態の復元は困難なものでしたが、研究者たちは、それらが以下の図のような形のカットをしていたであろうと推察しています。この形は後の時代へ継承されており、伝統的なルパシカの製法として現代にも通じるものです。

ロシアの北の隣人、スカンジナビア人の間でも同様の形の衣装がありました。この形のシャツをチュニックと言います。

古代スカンジナビアのチュニック型シャツ
出典:https://sciencepop.ru/odezhda-skandinava-epohi-vikingov/

 

ルパシカの原型となったであろうと考えられるチュニック型のシャツは、今のルパシカとは異なるスタンドアップカラーの無い首回りで、その形は丸、長方形、または台形に切った様々なものが見つかっています。さらに現代と同様にスタンドアップカラーのある丸いネックラインも若干ですが発見されてはいます。ロシアの研究者はこれをビザンチンの影響であろうと説明しています。ウィーン博物館に所蔵の、ビザンチン様式の方法で縫製された12世紀のダルマチア人のシャツにも同様のカットと装飾が施されているからです。ビザンチン様式のファッションはウラジミール公国と旧ロシアの土地では一般的だったと考えられています。ほとんどのダルマチアのシャツには、左側または右側にカットがありました。

12世紀のビザンチン様式のダルマチア人のシャツ

 

発見された破片は絹の生地が多く、その上に金の生地が縫い付けられているか、金または絹の糸で刺繍されています。ボタンは通常、銅で、金メッキが施されている場合があります。樺の樹皮や皮革が首回りに置かれることが多く、こちらは小ぶりながら硬い直立した襟を形成していました。

シャツの生地自体は、絹、麻またはイラクサでした。絹や麻は読者の皆様もご存じでしょうが、イラクサというのは下の画像のような植物です。ロシアでは繊維を採取するためだけではなく、香草としてスープに入れるなど食用としても活用されている植物です。近世のロシア文学にもよく出てきますね。

いらくさ
出典:Public Domain

 

ウラジミール公国で発見された古代ルパシカの破片と同様に、ノヴゴロドの土地でも同じような断片が発見されています。因みに有名なニジニ・ノブゴロドと旧都ノブゴロドは全く違う場所ですから気を付けてくださいね。ロシアでのサッカーワールドカップの際、間違えた行っちゃった人が多くいましたので。

ノブゴロドとウラジミールの位置関係
出典:Public Domain

 

ノブゴロドの古代ルパシカの断片というのは、1つは13世紀にノブゴロドの聖ソフィア大聖堂にアレクサンドル大帝の埋葬とともにささげられたもので、アレクサンドル大帝の昇天の物語が織られています。さらにウラジミール・ヤロスラヴェリ公の葬儀に着用されたルパシカのスタンドカラーの部分もあります。

図3. 12〜13世紀の葬儀の断片
図4.ウラジミールの葬儀の首輪

言うまでもなく、このような豊かな装飾が施されたルパシカは貴族のものでした。

農民や他の社会レベルの人々も似たような服を着ていましたが、素材や装飾の豊かさには違いがありました。そのようなシャツがどのような外観だったかについては、貴重な13世紀に著されたプスコフの本の挿絵の1つから得ることができます。そこには、長方形の襟と横にスリットのあるチュニック型のシャツを着て休んでいる農民が描かれています(下図)。

図5.休息する農民
それ以降出土されているサンプルから、そのようなルパシカは、ほとんどの場合、花またはシンプルな装飾品で飾られていました(下図)。
図6.スーズダリの墓からの衣服の断片。
図。7.刺繍のかけら
図8.刺繍の断片

以上のようなロシアの古代に創作された刺繍も、現代において再現され、現代のファッションにおいても応用可能となっています。以下はブログ筆者の有する刺繍のサンプルです。これらを使って、古代からの流れをくむルパシカやサラファンの作成が可能となっています。

いかがでしたでしょうか、次回はロシア近世のルパシカの歴史を紐解いてみましょう。

 

参考文献およびウェブサイト(すべてロシア語です)

https://vrns.ru/analytics/1394

https://club.osinka.ru/topic-180010?start=15
・R.V.サハルジェフスカヤ「衣装の «歴史:古代から近代へ
・カミンスキーN.M.「コスチュームの歴史」
・Далю(ダーリョ)「Толковый словарь живого великорусского языка」

https://ruvera.ru/istorija_russkoj_rubahi

 

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