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ロシアファッションヒストリー29 ロシアファッションの変遷1990から1910年 5

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主婦のための雑誌 出典:
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ロシアのファッションの歴史のブログです。今回も前回に引き続き、1900年から1910年までのお話です。当時のファッション雑誌、ロシアへ訪れたスター、ロシア人スターなどの興味深いテーマを紹介します。

当時のファッション雑誌

1900年からの10年間は、ロシアのファッションが大きく動いた時代です。その要因として、この10年間におけるファッション雑誌の発行と普及があります。ロシアには当時、10誌以上の国内ファッション雑誌が発行されていました。例えば「レディースワールド」、ロシアの読者のためのファッション誌「パリジャン」、「モダンウーマン」などです。

レディースワールド
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パリジャン
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これらの雑誌には、最新の衣類のモデルだけでなく、アクセサリー、パターン、刺繍デザインなどの購買意欲を大いにくすぐる記事も掲載されていました。1900年代はこれらの雑誌はすべて白黒でしたが1910年代 最初のカラーの雑誌も登場し、国内のものに加えて、外国のファッション雑誌も販売されるようになりました。

主婦のための雑誌
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ロシアの女性雑誌に関しては、ロシアファッションの歴史に深くかかわることですので、いずれ頁を改めて深く検証していきたいと思います。

 

当時の女性の着替えの回数

1910年当時、おしゃれを気にする女性、つまり経済的に豊かな女性は日に6回着替えることが普通だったようです。夜の寝間着から、朝は軽い部屋着、散歩するときは外出用のドレス、他にお茶用、昼食用、そして晩餐用ドレスです。こうした頻繁な着替えができるのは必ずしも貴族のみではなく、いわゆる都市部の上流家庭でもある程度可能でした。ただしそのためには、洗濯専用のメイドが一人、料理人、その他の用事をこなすメイドの最低3人を雇える必要がありました。もし子供がいれば、加えて乳母と家庭教師が必要でした。

 

喪に服す場合

1990年当時のロシアにおいての喪の期間は非常に長いものでした。配偶者、親、子、兄弟の死後、喪は1年間続きました。喪に合わせての衣装は社会通念として非常に厳格に守られ、その1年間衣装は勿論、アクセサリーにも気を使わなければなりません。上記以外の喪は血の濃さによって、6か月と、3か月の喪にも分かれていました。未亡人のみは、最も厳格な喪に服さねばならず、1年間の衣装は黒と決まっていました。未亡人の喪中はアクセサリーとしてダイアモンドを付けることは許されず、身に着けるものすべて黒を基調とすることが常識だったそうです。

 

1900年からの10年間、ロシアを訪れたスターたち

当時のロシアの経済は潤っていたため、西側、主にヨーロッパから多くのスターがロシアに興業のため訪れました。今でいうロシアツアーですね。言い換えれば、華麗なヨーロッパの女優、歌手が、彼女たちのヨーロッパのファッショントレンド、ライフスタイルに関するアイデアをロシアにもたらした時期でもあるのです。
1900年代にロシアを訪問した素晴らしい女性の一人は、イタリアのソプラノの歌手リナ・カバリエリです。彼女は頻繁にそして熱心にサンクトペテルブルグへのツアーに参加し、そこで大きな成功を収めました。殊に彼女の身に着けていた豪華な宝石は、ロシアのマスコミで常に話題になっていました。

リナ・カバリエリ
出典:https://club.osinka.ru/topic-180010?start=0

 

喜んでロシア公演に訪れたもう一人の外国人女性は、ベルギーのバレリーナ、クレオ・デ・メロードでした。彼女の芸歴を振り返る回顧録の中で、ツアーでの世界中の旅の中でも、特にサンクトペテルブルクでのような豪華な観客を見たことがないことを述懐しています。「客たちの衣装はダイヤモンド、毛皮、金の肩章で飾られており、ロシアほど豊かな国は世界にどこにもなかった」と言っています。

クレオ
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クレオは今風の美人ですね。

ロシアで外国人スターとして特に人気があったのは、スペインのダンサー、カロライナ・オテロでした。2006年、彼女の伝記「The Beautiful Otero」はロシア語で出版されました。当時ロシアでは、コンサートでの一般的なプロトコールとして、聴衆が出演者へプレゼントを手渡すパフォーマンスがありました。このような贈答品は、個人からも、さまざまな団体や組織、たとえば商工会議所、産業家組織などが贈ることもできます。彼女へのギフトの中身は常に宝石で、しばしばダイヤモンドが送られたと雑誌記事などに書かれています。

カロライナ
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当時のロシア人のスターたち

当時の有名なロシア人のスターはと言えば、役者のアナスタシア・ヴィアルツェヴァでした。彼女はロシアで最も裕福な女性の一人と考えられていました。例えば、彼女は豪華な独自の鉄道車両を持っていて、それに乗ってロシア全国を公演旅行したと言います。彼女が公演で訪れた町は、彼女に贈るプレゼントの豪華さで互いに競い合いました。当時ロシア領だったハルビンでのツアー中、地元の商工会議所によってダチョウの羽が贈られ、それにはダイヤモンドのブローチが各羽にちりばめられていたという逸話が残っています。

アナスタシア
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後に皇帝ニコライ2世の恋人となるロシア人バレリーナマチルダ・クシェシンスカヤも、ファッションセンス豊かなスターでした。この女性は、優れた知性と強い性格で際立っていたため、ファッションのトレンドだけでなく、当時の政治的な出来事にも大きな影響を与えた人です。

マチルダ
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いかがでしたでしょうか。次回もロシアのファッションヒストリーは続きます。

 

参考文献およびウェブサイト(すべてロシア語です)

http://lamanova.com/16_competitors.html
https://russian7.ru/post/kak-poyavilas-kosovorotka-u-russkikh/
https://vrns.ru/analytics/1394

https://club.osinka.ru/topic-180010?start=15
・R.V.サハルジェフスカヤ「衣装の «歴史:古代から近代へ
・カミンスキーN.M.「コスチュームの歴史」
・Далю(ダーリョ)「Толковый словарь живого великорусского языка」

https://vladimirdar.livejournal.com/34227.html

https://wiki.wildberries.ru/%D0%B3%D0%BB%D1%8F%D0%BD%D0%B5%D1%86/%D0%B8%D1%81%D1%82%D0%BE%D1%80%D0%B8%D1%8F-%D0%B6%D0%B5%D0%BD%D1%81%D0%BA%D0%B8%D1%85-%D0%B6%D1%83%D1%80%D0%BD%D0%B0%D0%BB%D0%BE%D0%B2-%D0%B2-%D1%80%D0%BE%D1%81%D1%81%D0%B8%D0%B8-%D0%B6%D1%83%D1%80

 

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