ルパシカ、サラファン等ロシアファッションについて紹介するブログです。
ロシア ファッション ヒストリー ルパシカ 5 からの続きです。
今回は、ロシア革命後、1917年~1928年ぐらいまでのソビエトのファッションを見てみましょう。
社会主義革命に伴うファッションの変化
ロシア革命は1905年の第1次革命と1917年の第2次革命に大きく分けることができます。1917年の第2次革命も、大きくは2月の市民による大規模ストライキと、10月の軍事クーデターに分けられ、政治的により大きなイベントは10月革命ですので、10月革命後という切り口でロシア革命の後の時代の変遷が語られることが多いのです。
10月社会主義革命は、「大衆文化の大きな繁栄のための転機だ」とソ連社会党は喧伝しました。「これまでの帝政時代、市民の教育と文化はかき回され、扇動されてきたため、我が国の労働者と農民の教育文化への渇望は非常に大きい」とし、レーニンはスローガンを「芸術は人々に属している」と掲げました。
10月革命前後、経済的荒廃、飢饉、軍事介入、内戦などの厳しい状況にソ連国民はみまわれました。その後、「戦闘機、英雄」というキーワードの古い世界から脱却し、「真実、ヒューマニズム、美しさ」を理想とする新しい生活を構築することが人々の目的となりました。
1918年初頭、荒く、灰色の紙のソ連最初の雑誌「アート」には、新しい芸術、社会主義的なコンテンツ、都市の美的外観の構築のために、「ソ連を陽気でエレガントにする」という「革命的な芸術的タスク」が掲載されています。
ファッションも美術の一種であり、新しい生活様式、社会システムに対応する必要があり、革命後の道徳の担い手でなければならないと教えられ、考えられていました。1919年8月、美術産業に関する第1回全ロシア会議で講演したファッションデザイナーN.P.ラマノワは、「衣料分野のアーティストは、最もシンプルだが美しい服の素材を使い、新しい働き方に適したファッションの創造に取り組むべき」と演説したという記録が残っています。
戦争時代、社会主義時代のファッションとは
10月革命により社会構成が変わり、貴族階級が排除されました。と同時に、華美な化粧、西洋のファッションの盲目的な模倣も消えていきました。農民と都市のホワイトカラー、中流知識人は、ファッションに、軍事と民間の仕事や、日常生活のための機能を取り入れることを自発的に推進していきました。
皆さんがご存じのように、ファッションの要素として、革命のバナーの色、「赤」はファッションの最も象徴的な色となりました。
また当時の衣装は、レース仕上げ、フリル、ブローチ、リングなど、「装飾的なもの、フリルのようなもの」の完全な排除が、その特徴です。
ソ連の作家、N.オストロフスキーの小説『鋼鉄はいかに鍛えられたか(ロシア語版)』には、登場人物パベルがトーニャ・トゥマノワを会議に招待する場面があります。
トーニャのエレガントで浮気っぽいドレスは、古い綿の色あせた体操着の間で鋭く目立ち、すぐにクラスの批判の的になります。「彼女は私たちのグループにそぐわない。ブルジョワジーのように見えるし、彼女はどうやってこの学校に入るのを許されたのだろう」というくだりがあります。プロレタリアのファッションの極端な謙虚さと緊縮的なテイストは、抑圧と暴力の古い世界を破壊するという意味がこめられていました。つまり、革命家は、少なくとも何らかの方法で帝政時代を想起させるすべてのものを放棄したかったのです。そしてそうした意向が民衆のファッションに対しても向けれれていたということです。
赤軍の軍服
10月革命以降にデザイナーが創作した最初の国家的制服が赤軍(ソ連軍)の軍服でした。1918年には、軍服のコンテストを開催する特別委員会が結成されました。このコンペティションには、当時世界的に有名だった画家V・ヴァスネツォフ、B・クストディエフなどが参加し、ロシアの歴史的ファッションの創作に寄与しました。1年後、新しい軍服が、革命的軍事評議会によって承認され、ヘルメット、コート、ジャケット、シャツ、革靴などのデザインが決定しました。
その後のロシアファッションに影響する重要なポイントは、この時軍服のデザインに、ロシア伝統のコートの形とルパシカが取り入れられたことです。さらにロシア由来の古代のモチーフも、ヘルメット、襟、星の象徴的な赤色とうまく組み合わされたようです。
一般家庭用ファッションの創作
市民の一般家庭におけるファッションも改革の対象でした。1919年に芸術家、N.ラマノバのイニシアチブで「現代のファッション指導書」が作成されました。これは、ソ連での衣類に関する最初の実験でした。V.ムヒナ、N.ラマノバ、N.マカロワなどの当時優れたデザイナーと評価された人々がこのプロジェクトに参加しました。
その後、1923年に「ソビエトファッション創作センター」が結成され、さらにその後「ファッションスタジオ」と改称され、ソ連の新しい衣装を作成するためのいわばクリエイティブセンターのようなものが構築されたと言うことができます。
これらの新しいファッション創作に関する作業は、広く一般大衆の関心を集め、熱い論争が繰り広げられたと言います。当時のファッションデザイン事務所「アトリエ・モッズ」のディレクターO・セニチェワ・カシェンコはこう語っています。「今ではファッションとかアトリエという言葉が、こうした組織や建物に使用されることに人々は慣れていますが、当時、これらの言葉は胡散臭いものととらえられていました。」
にもかかわらず、「ファッションスタジオ」で繰り広げられたファッションショーやコンサートの評価は高いものでした。ここでのイベントには、産業界の代表者だけでなく、衣料品工場の労働者も来ましたし、多くのアーティスト、作家など著名人も参加し、その中には世界的に有名な歌手アントニナ・ネジダノワがいましたし、アナリー・ルナチャルスキーも来ました。ファッションショーでは、リビング用のシンプルなホームドレスの新作、そして 白いルバハ(シャツ、またはブラウス)の上に、ロシアの国民服に基づいて作成されたウールの刺繍入りサラファンの新作などが発表され、大盛況だったと当時を知る人は語ります。
ファッションショーを見に来た人々の中には、若い写真家エドゥアルド・ティッセがいて、彼の写真は後に作られた映画「ファッション・No.1のクロニクル」に含まれています。ファッションショーに通底するテーマは、西洋のファッションの盲目的模倣の拒絶、ソ連国民の生活様式(労働、気候などの自然条件、ロシア人特有の外面と内面)へのファッションの適合が原則でした。
先に登場したデザイナー、ナデジダ・ペトロヴナ・ラマノワが、これらの原則の創始者と考えられています。彼女の創造的な活動は、帝政時代の終わりに始まり、ソ連時代に続くものでした。他のデザイナーとの大きな相違は、外面だけでなく、その内面の資質と、ファッションの形状を関連させる能力でした。西欧ファッションの盲目的模倣が失敗だったと評価されるのは、当時彼女のデザインのポリシーに説得力があったからです。
ファッションは外面のみならず、内面的な要素にも合わせるという考え方からすると、ラマノバにとっては、「パリのファッションをロシア人女性は着こなさない」という考えに至るのは当然のことでした。自然、気候、生活様式、人々の物理的的に所有しているもの、ソ連の人々の精神的な気質が、西洋のものと異なる場合、ソ連のファッションと西洋のものを同じにすることはできないという主張ですし、ラマノバ自身、彼女がロシアの女性のためのファッションに取り組んでいることを忘れませんでした。
今日のファッションデザイナーのモットーに、N.P.ラマノバの有名な公式が見て取れます。「何のために、誰のために、どんな素材から」がそれです。ここに、ラマノバの残したイラストがありますが、これら公式を追求していたことがわかるでしょうか。
明らかに、カーテンなどの端切れが材料として、意識され、長い丈のブラウスとストレートの狭いスカートは、1920年代のヨーロッパ的なシルエットをロシア風に変えた跡がみられます。
いかがでしたでしょうか。
さらにソ連のファッションに関するお話は続きます。ロシアファッションヒストリー7
参考文献およびウェブサイト(すべてロシア語です):
・https://russian7.ru/post/kak-poyavilas-kosovorotka-u-russkikh/
・https://vrns.ru/analytics/1394
・R.V.サハルジェフスカヤ「衣装の歴史:古代から近代へ」
・カミンスキーN.M.「コスチュームの歴史」
・Далю(ダーリョ)「Толковый словарь живого великорусского языка」
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