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ロシアファッションヒストリー2

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ロシア ファッション ヒストリー ルパシカ 1 からの続きです。このテーマをお読みいただくと、ルパシカ、サラファンと言ってもロシア風やウクライナ風があること、そしてピョートル大帝前と後つまり17世紀以前と18世紀以降では違いがあるということがよく想像できると思います。

今回はウクライナ、ロシアを含んでいたルーシという国、そして10世紀ごろのロシア ファッション についてお話ししたいと思います。

8世紀から9世紀にかけて、東スラブ人は、バルト海と黒海の間の水路付近に住んでいたことがわかっています。いくつかあるコロニーの中で最も文化的、経済的に開発されたのは、北部のスカンジナビア諸国、特に南部のビザンティウムとの貿易をするノヴゴロド、スモレンスク、キエフでした。

1389年のルーシ
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スラブの最初の封建国家は、現在のロシア、ウクライナ、ベラルーシの3つを主文化とするキエフ・ルーシにできました。ここのところ、実はもっと複雑で諸説あるんですが、wikipedia を読んだだけでも、ドツボにはまりそうです。とにかく、現在のロシアという国の原型は10世紀にできて、中心が最初はキエフにできたとことは理解できました。

12世紀の最大の文化の中心地は、ロシア北東部の都市ノヴゴロド、ウラジーミル、スズダリでした。ロシアツアーでは定番の観光地ですね。しかし、13世紀には、タタール・モンゴルによってルーシ文化の繁栄が中断され、国としての機能を失います。古い表現ですが、国体を失ったということですね。

スズダリ
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それ以来、ルーシ国民の願望は(貴族や豪商たちの願望は、と言い換えた方がいいでしょう)、分断された地域をロシア公国として統一することでした。

1380年、モスクワ王子ドミトリー・ドンスコイ率いるロシア軍がクリコフのタタール人を破ります。このあたりになるとルーシという国名ではなく、ロシアと表記されるようになりますが、これはタタールを地域から追い出したのはロシア人だからです。そして14世紀と15世紀の間に、モスクワ周辺のロシアの土地が合併し、中央集権的なモスクワを首都とする国家が作られました。

Dmitry-Donskoi
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こうした歴史からわかるように、ロシアという国の出発点は実は現在のウクライナの首都であるキエフであり、そしてモスクワに首都が移る際に、国の分断という経緯があったため、特に民族仕様ではキエフ風とモスクワ風、あるいはウクライナスタイルとロシアスタイルと言い換えられ。それぞれ特徴のあるルパシカが定着していった、ということなんです。

では、ピョートル大帝以前の、ロシアファッションがどのようであったかに話を移します。

10世紀以降、社会的、経済的な状況が、ルーシの芸術(建築、フレスコ画などの絵画、その他の芸術的工芸品)に深く影響しました。そうした影響は勿論このブログのテーマであるロシアファッションにも見られます。

まず、ルーシ人の外観、つまり美しさは常に近隣のヨーロッパ人とアジア人の両方から熱狂的な反応を引き起こしたとの記述があります(出典:カミンスキーN.M.「コスチュームの歴史」)。いろいろな地域からのルーシへの旅行者は、もちろん美しさに関する異なる基準を持っているにもかかわらず、ルーシ人を評価する際、高身長、要所要所に明るく赤味がかかっている白い肌、美しいブロンドの髪を指摘し、これらを高く評価していたと記述されています。今でもそうですよね。

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10世紀のアラブ人旅行者、アフメト・イブン・フォドランは、ロシアの商人を見て「彼らはヤシの木のように背が高く、肌は赤子のようだ」と記録しています。またヴェネツィアのマルコポーロは13世紀に著した旅行記「東方見聞録」で、北の国ルーシの住民についてこう書いています:「彼らは非常に美しい人々です。肌は白く、背が高いです。ルーシの女性はブロンド髪を長くしているのが特徴です。」

マルコ・ポーロ
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ルーシ民族の美しさは、よく歌の中に出てきますが、その中で、背の高さ、赤味がかった白い肌に加え、雄々しい姿勢、太い眉、女性の白鳥のような歩き方、が描写されることが多いようです。

次のような民謡があります。

「白鳥のように滑らかに歩く。鳩のように甘美な姿で。言葉は発せず沈黙し、ナイチンゲールたちは歌います。彼女の生意気な頬は、神の空の夜明けのように燃えます。三つ編みの髪は金色、明るいリボンを編み込んで、肩の上を踊ります。」

さて当時のファッションに関して、そうしたルーシ人たちの外観そのものが、当時のファッションのそのシルエット、詳細な形状、装飾、使用された生地や装飾、色の組み合わせなどの考証で、ルーシの衣装を再現するのに役立ちました。

この歴史的な時代の男性ファッションの最も一般的な特徴は次のとおりです。
1)まっすぐな袖、そして袖口の広がったシルエット。
2)細かい円形のラインを持つ、かつ対称性のある装丁。

3)上着(ジャケット)には非対称性のものがあるが、バランスが取れ、安定している。
4)金と銀の装飾パターンの生地。

5)刺繍、毛皮、異なる色の生地で仕上げながら、コントラストが考慮された動的な模様
6)ファッション性に大きな意味のある帽子。

出典:http://russia-ic.com/culture_art/traditions/859/#.XjpSbm5uKcw

文献によると、17世紀と18世紀まで、ロシアは独自の大規模な織物生産を持っておらず、高いグレードの生地は、イタリア、スペイン、オランダからはモスクワに輸入していました。キエフには、ビザンティウム、イラン、中国、ノヴゴロド、プスコフから持ち込まれていました。これらは一般的には絹です。
また最も魅力的だった色は、紫や赤みがかった紫、青、緑でした。
上述したように、これらの生地に金と銀の糸を使用して、明確かつ大きなパターンで装飾を施します。

特別な儀式の服として、コート、帽子にはベルベットが使われ、素材はシルクベースに大きな金色のパターンで織られたものが使用されました。ベルベットはトルコ、ペルシャ、イタリアから持ち込まれていました。使用された皮革は、セイブル、マランド、ビーバー、カワウソ、キツネ、野兎、リス、ヒツジでした。

20,21世紀のルパシカやサラファンに目を移してみると、色調や形に10から13世紀のルーシファッションの名残を認められるものもありますし、コートなども、シルエットに当時のものが反映されているデザインをロシア、ウクライナ旅行の際よく見かけたものです。

ルーシ風コート
ウクライナ キエフにて

いかがでしたでしょうか。ロシア ファッション ヒストリー のお話はまだ続きます。ロシアファッションヒストリー3

 

参考資料:

  • R.V.サハルジェフスカヤ「衣装の «歴史:古代から近代へ
  • カミンスキーN.M.「コスチュームの歴史」
  • 深見晃子ら「18世紀から20世紀までのファッション史」京都衣装研究所コレクション 2003

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