ウラルを超えた民族 バシキール ロシアファッションブログ167
ロシアファッションブログです。ウラルを越えた民族シリーズ、今回はパシキールをお届けします。
バシキール人はかなり以前からクルガン地方に居住していたため、ウラルを越えた民族と言いにくい面もあります。現在、クルガン致富に住むバシキール人は12,000程度ですが、ロシア全体のバシキール人は120万人を数え、多くはバシコルトスタン共和国に居住するロシアで4番目に多い民族です。
歴史
バシキール民族は、彼らの先祖が約千年前に今日彼らの住むロシアの領域に移動し始めたと考えられます。この証拠は、西暦9〜13世紀に地元を研究したアラブの旅行者によって確認されています。さらに、ウラル山脈を占領した先祖の言い伝えもこのことを裏打ちしています。
バシキール人の土地は職業によって区切られました。たとえば、ラクダの飼い主は占め、羊などの牧畜民は山の牧草地を手に入れました。狩猟をする人々は、動物や狩猟動物がたくさんいる森に住むことを好みました。
モンゴル人による侵略では、バシキール人の生活は大きく変わりませんでした。というのもモンゴル人はバシキール人を仲間の部族とみなしたので、彼らの居住地に触れないことに決めたからです。その後、イスラム教がロシアの多神教(異教)に取って代わってバシコルトスタンのあたりを中心にしてバシキール人に広がり始めました。税を支払うことを除いて、モンゴル人は決して人々の生活に干渉しませんしなかったため、特に山岳部のバシキール人は完全に独立したままでした。
バシキール人は常にロシアとの貿易関係を行ってきました。ノヴゴロドの商人たちは、商品、特に羊毛についてバシキール人のものを高く評価しました。
こうしたこともあって、イヴァン3世の治世中、ベラヤヴォロシュカに送られた兵士はタタール人を攻撃し荒廃させましたが、バシキール人には一切触れませんでした。しかし、一方でバシキール人がキルギス・カイサクに攻められていました。こうした事実が、モスクワ皇帝の力の増大と相まって、バシキール人がロシア人と団結することを促したことが史実から読み取れます。
バシキール人はタタール人のカザンーハン国に税金を払いたくはなかったが、それでもキルギスからの襲撃を経験したので、カザンの市民権を受け入れた後、彼らはロシア皇帝にウファの街を建設するように頼むことにした。その後、サマラとチェリャビンスクが建設されました。こうしてバシキールの人々は、要塞都市と大規模な地区に分割され始めました。
正教会がロシアの支配的な宗教であったために、バシキール人は独立を実感ことができませんでした。このことがイスラム教の支持者がいくつかの蜂起を導いた理由です。こうしてロシア皇帝とバシキール人の関係は一時悪化しますが、次第に蜂起の数は減少し始め、バシキール人の住む地域の発い向けて方向転換します。ピョートル大帝は、銅と鉄を抽出する工場の創設に向けて、バシキール地域の開発の重要性を理解していました。こうしてこの地方のバシキール人の人口は、新規参入者も含めて着実に増加していきました。1861年には、バシキール人の農村住民の権利が確保されました。
20世紀になると、ロシアにおける教育、文化、民族的アイデンティティが発達し始めました。2月革命により、人々は国家としての地位を獲得することができましたが、大祖国戦争の勃発により、進展は大幅に遅くなりました。また経済不況、干ばつ、ロシアの同化政策はこうした発展を一時減速させましたが、現在、バシキール人の多く住むバシコルトスタン共和国は、活発な経済発展と都市化が顕著です。
バシキール人の生活
長い間、バシキール人は遊牧民の生活を送っていましたが、徐々に落ち着いた定住生活様式に切り替わりました。遊牧民のテント、パオはログハウスと日干し小屋に置き換えられました。イスラム教への信心は常に家父長制を背景としてきたので、家族の中では引き続き男が責任を負っています。また、以下の伝統はバシキール人の特徴です。
- 親族関係は、相続を決定できるように、明確に母方と父方の部分に分けられます。
- 財産と家は若い息子たちに受け継がれます。
- 長男と娘は結婚時に親の財産の一部を受け取ります。
- 男は16歳で結婚し、女児は14歳で妻になることが普通でした。
- イスラム教は複数の妻を許可しましたが、バシキールでは金持ちだけがこの特権を享受しました。
- 今日でも花嫁のために、花婿側は花嫁の家族にカリム(結納金)を提供します。額は常に新婚夫婦の両親の状態に依存します。以前は、結納は牛と馬、衣装、、キツネの毛皮のコートで支払われるのが一般的でした。
典型的なバシキールの伝統や儀式
バシキール人のおもてなしは、古代の慣習だけでなく、現在の彼らの法によっても規定されています。いかなる訪問者にも食事を与え、去って行くゲストには送りものがされます。訪問者が赤ちゃんを連れて来た場合、それは子供に贈り物をしないバシキール人はいません。
女性に対するバシキール人の態度は常に敬虔なものです。伝統的には、両親が花嫁を選びました。両親はまた結婚式を盛大に開催する責任がありました。面白いことに、花嫁は結婚後1年間、夫の両親とコミュニケーションをとることができませんでした。けれども、家族の中で、花嫁は尊敬され続ける存在なのです。夫は妻に手を挙げたり、彼女の態度にけちをつけることを固く禁じられていました。ただし、女性は夫に忠実でなければなりませんでした。姦通罪は厳しく罰せられました。
バシキール人は子供たちに細心の注意を払っています。子供の誕生時に、女性は女王のよう扱われ、健康で幸せに成長するために精神的にも、経済的にも、何ら出し惜しみをしないことが道徳的に正しいことでした。
長老たちはバシキール人の生活の中で最も重要な役割を果たしたので、長老たちを称える習慣は今日まで生き残っています。多くのバシキール人は高齢者と相談し、物事を解決します。
バシキールの人々が伝統だけでなく、過去の世代やイスラムの基礎に関連する習慣も尊重していることは明らかです。例えば、埋葬の際には、日没前に故人を埋葬する必要があります。故人の清掃は3回行われ、故人は特別な布で包まれ、祈りが読まれ、墓に安置されなければなりません。イスラム教徒の儀式によると、埋葬は棺なしで行われます。バシキールの習慣は、暗唱した詩の祈りをささげることを規定しています。
結婚式の伝統と習慣は独特で、かつ少し複雑です。バシキール人は、男性は結婚するまで真の大人になることはないと信じています。興味深いことに、バシキール人は思春期からもう子供たちのために結婚の準備、つまり花嫁・花婿探しが始められるという早婚の伝統があります。
結婚に関連して、多くの決まりがあります。夫は妻より少なくとも3歳年上である必要がありました。今では結婚式はより簡素になったものの、結婚に先立って、車、コンピューター、その他ある程度の財産を手に入れることが望ましいです。一方、豪華な儀式とカリム(結納金や持参金)の支払いは過去のものです。
バシキール人の衛生観念は昔から高いものでした。人々はテーブルに座る前に手を洗いました。肉を触ったり、食べたりした後に手を洗うことが不可欠でした。口をすすぐことも食前に必ず行う準備であると考えられました。
バシキール料理
バシキール料理はシンプルなものが多い理由は、バシキール人にとって食事で最も重要なことは、十分に栄養を与えることであり、楽しむことは2の次というう考え方があったからです。また料理の特徴は豚肉がないことですが、これはイスラム教の規範によるものではなく、純粋に古代の食習慣によるものです。彼らの住む場所にはイノシシがいなかったので、羊肉、牛肉、馬肉を食べました。バシキール料理はボリュームたっぷりで栄養価が高く、常に新鮮な食材を使用しています。タマネギ、ハーブ、スパイス、ハーブが皿に加えられることがよくあります。中でもタマネギはバクテリアとの戦いに役立ち、ビタミンCを摂取し、血圧を正常化することができるため、バシキール人が高く評価している食材です。いくつかのバシキール料理を紹介しましょう。
ベシバルマック
ベシバルマックは、伝統的なバシキール料理であり、チュルク語を話す人々の料理の特徴です。直訳すると「5本の指」または「5本」を意味するします。昔は手つかみで食べていたのでしょう。
エクポクマック(三角形)
タタールとバシュキルの郷土料理で、酵母で作られた焼き菓子えす。あまりプレスされていない生地に、ジャガイモ、肉、玉ねぎの詰め物をします。
チャックチャック
特にバシコルトスタン共和国とタタールスタン共和国のもので、蜂蜜入りの生地からなる甘さの際立った料理です。
ベリャシュ
ベリャシュは、ひき肉または細かく刻んだプレス生地またはイースト生地で作られた揚げパイです。上部が開口しているのが特徴です。
ツクマス
鶏肉入り(羊肉でもOK)のスープヌードルです。
さて今回はここまで、次回はバシキールの伝統衣装と祝祭についてお届いたします。
参考資料
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