雑誌の目的としては共産主義の考え方を流布、教育し、女性を生産プロセスに参加させることでした。雑誌の著者は、党職員、労働特派員、農村特派員などでした。内容は、政治教育は無論のこと、これに加えて、農業、工業生産、東側諸国の記事が主でした。こうした背景から、世紀初頭のロシア女性雑誌に登場したモデルは、明るい唇と大きな目を備えた甘ったるい女性だったのが、1920年代に、たくましく太い腕でずんぐりした「労働者/農民タイプ」に置き換えらたことがよく確認できます。なお女性誌における文学志向は革命後も一貫して継続しています。
女性向け文学/公共事業関連雑誌
20世紀の初めに多数創刊された文学/公共事業関連の雑誌は、1920年代に多くが一時休刊、あるいは廃刊に追い込まれています。同様に当時存在していた18刊の女性向け出版物のほとんども休刊、廃刊となっています。理由としては、女性のための雑誌には一時外国の論文を取り入れる傾向があり、その中には間接的に女性の社会活動を非難するものが散見され、こうした理由から特に当局からマークされたという経緯があるためです。
ではこの時代の個々の女性向け文学関連雑誌を見てみましょう。
«Женский журнал»「Women’s Journal」(1926年から1930年)
雑誌「Women’s Journal」はオゴニョク出版社が創刊した月刊誌です。文学と公共事業関連の話題を中心とした雑誌ですが、テーマとしては「家庭」と「ファッション」にかなり焦点を当てていました。この出版物の主な役割は、読者の共通の関心、価値観、ニーズの形成と、特に子供向けのケータリングや集団レクリエーション団体を組織することにより、無料の公共事業のニーズを満たすための情報交換の場、というようなものでした。ソ連社会主義ならではの位置づけの雑誌ですね。
「Women’s Journal」は当初他の子のカテゴリーの雑誌と同様、20世紀初頭の文学や女性一般が興味を持つ記事を取り上げていましたが、1928年に党からの圧力を受けて、家族の問題、女性の権利の問題を取り上げることを拒否し、ソ連の指導者の望む政治トピックにもっと注意を向け始め、政治哲学や生産性の向上というテーマに偏っていきました。
女性向け社会政治ジャーナル
時代が時代ですから、このジャンルの雑誌は本丸というか、少なくとも党が最も重視していた雑誌です。1920年代のこのジャンルの雑誌は、対象読者ごとに次のように明確に分けることができます。
- 党員向け:«Коммунистка»「共産主義」1920-1930年
- 働く女性のため:«Работница»「労働者」1923年に再発刊-現在
- 女性労働者と主婦活動家のために:«Делегатка»「The Delegate」1923-1931
- 農民の女性のため:«Колхозница»「コルホズニツァ」1925-1929, «Батрачка»「バトラチカ」1925-1929 , «Крестьянка»「女性農民」1922年から2015年まで)
「労働者」については前回特集しましたので、この内から今回は、«Коммунистка»「共産主義」と「農民女性」を取り上げてみます。
«Коммунистка»「共産主義」1920-1930年
ソ連邦になってからの最初の女性誌「共産主義」は1920年に創刊し1930年まで続きました。この出版物は女性労働者、農民女性、党員を対象としています。この雑誌に与えられた役割は、ソビエト女性の教育です。この雑誌は、女性向けソビエト政治出版物の典型として考えられました。党中央委員会が発行者で、各号の内容はは党によって決定されました。
«Крестьянка»「女性農民」1922年から2015年12月まで
1922年、農村部の女性のための雑誌が、党中央委員会の女性委員会によってに創刊されました。当初、この雑誌の創刊目的は、「ソ連の社会的および文化的生活を労働者に紹介すること」でした。この出版物では、党の政治運営の基本がわかりやすい言葉で書かれ、非識字の排除、女性評議会、相互扶助委員会、配給ポイント(当時、食料品に限らず色々なものが配給制でした)、保育園、幼稚園の組織化の方法が詳細に説明されていました。シリーズとして、「トラクターについて」、「結婚と農民の女性」というコーナーがあり、フィクションのセクションでは、党の意向に沿った小説が発表され、P. Dorokhovの「Woman」、N.Platonichの「Matrena-warrior」、A.Neverovの「Committee」、「保育園」などが小説としてベストセラーになっています。
雑誌の各号には、付録として、編み物、裁縫のマニュアルが付いていました。
作家、ゴーゴリは1933年、この「女性農民」と「Worker」に次のような、賞賛の辞を述べています。
「この2つの雑誌を手にして、労働者や農民に語り掛ける言葉の適切さと、共産主義を浸透するためのアイデアの明快さに満足しています。ヨーロッパ・アメリカのような資本主義国家では、無力な女性労働者や女性農民が虐げられています。社会主義共和国連邦の女性は、あらゆる分野で男性に追いつく必要があります。そのためには、これらの雑誌が目指しているように、まず第一に、内的で本能的な資質を自ら欲すること、つまり能力と才能の成長を妨げる重力から自分自身を解放する必要があるのです。」
1930年代に、「女性農民」は、セルフケアのヒント、料理レシピ、流行のドレスの型紙を掲載し始めました。2000年になってからは、ファッションに関連した画像が雑誌の表紙に掲載されるようになります。
上の画像は廃刊間際の「農民女性」の表紙ですが、雑誌名とファッショナブルなモデルの出立が見事にアンバランスですね。
次は、このブログのテーマであるファッション関連の雑誌です。
- ファッション誌
本格的なファッション誌が出る前は、上述の社会政治的および文学的タイプの女性誌が、同時にファッション関連の出版物ともみなされていました。しかし、1920年、1930年と次の2つの本格的なファッション出版物が創刊されます。
«Новости моды» и .Fashion News
«Моды сезона»Fashion of the Season
これらは主に首都に住む女性の間で人気を獲得していました。
さて、もう一つ、この時代で無視できないソ連ファッション誌があります。それは、
«Ателье»”スタジオ”
このファッション誌は1923年に創刊された、真のソビエト・ファッション誌の第一号です。それまでは、多くのパリの出版物が輸入されて読まれていましたが、これに変わる国産雑誌としての位置づけで出版されました。この雑誌のコンセプトは少し傲慢なもので、「ソビエト女性労働者を対象とする、シンプルなファッションだけが注目に値する。」というものでした。ソビエト連邦の人々のみによる、純粋な国産ファッション雑誌で、編集にはロシア人でレジェンド的なファッションデザイナーである、ナデジダ・ラマノワが参画していました。他にも多くの芸術家や作家が関与しています。例えば、彫刻家ヴェラ・ムヒナ、詩人アンナ・アフマトバ、芸術家クズマペトロフ・ヴォドキン、ボリス・クストディエフなどです。
いかがでしたでしょうか、ロシア革命前後の女性出版物ということで、時代背景のコントラストがとても興味深かったと思います。
次回は、1928年以降のロシア(ソ連)女性誌の歴史を紹介いたします。
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